NHK大河ドラマ『どうする家康』で有村架純さんが演じた瀬名姫(築山殿)が夫、徳川家康に殺害されてしまうという事件はとても有名です。
いわゆる「築山殿事件」です。
実はこの悲劇にはきっかけとなった重要な事件があったことをご存知でしょうか?
それは「大岡弥次郎事件」です。
築山殿を語る上では避けては通れない歴史的悲劇を
あまり知られていない「大岡弥四郎事件」を中心に解説していきます。
↑こちらの記事も参考にしてください。
大岡弥四郎事件
築山殿と徳川家康が完全別居するようになってから6年後の天正3年(1575年)、徳川家で大事件が起きました。
「大岡弥四郎事件」と呼ばれる謀反事件です。
事件概要↓
事件概要:徳川家臣団による武田氏への寝返り事件
主謀者 :大岡弥四郎(岡崎町奉行) ※『三河物語』では大賀弥四郎
参加者 :石川重春、松平新右衛門、小谷九朗左衛門、山田八蔵
※石川は信康家老。松平は岡崎町奉行。小谷は信康家老の家臣
共謀者 :武田勝頼(武田信玄は3年前に死亡)
背景 :隣国・武田氏の勢力が強く、徳川氏は劣勢
目的 :三河国を徳川方 ⇒ 武田方へ勢力塗り替え
作戦 : ①足助(豊田市)・大樹寺(岡崎市)方面/ 作手(新城市)方面へ武田軍出馬
②夜中に軍勢を岡崎に進める
③弥四郎が家康入城と偽り、門を開け軍勢を入れる
※当時、家康入城の際、門を開けさせるのは弥四郎の役目だった
当時の隣国の武田氏は凄まじい勢いで、
徳川氏は武田氏の脅威に日常的にさらされており、
存亡の危機に瀕していました。
徳川家臣たちは不安から内部分裂の兆しが芽生えてしまいます。
その舞台は三河国・岡崎であり、
裏切りを実行したのが、大岡弥四郎という人物でした。
弥四郎の狙いは、三河国を武田方にしてしまうこと。
そのために、武田軍を岡崎城へ引き入れようと画策。
最終的には三河・信濃方面から徳川を挟み討ちにして、
徳川氏滅亡を狙います。
弥四郎はじめ、主謀者は保身のため、
自身の運命を武田氏に託したのだと思われます。
『三河物語』では弥四郎が武田勝頼に対して作戦の書いた手紙を渡しており、
勝頼は大喜びで兵を進めています。
しかし、直前で山田八蔵が、岡崎城へ通報したことで未然に防がれました。
事件結果↓
【徳川方の処分者】
・大岡弥四郎 ⇒ ①指10本切断 ②足の大筋切断 ③生き埋め ④通行人が交替で竹鋸と鉄鋸で首を引く
・大岡弥四郎の妻子5人 ⇒ 磔刑
・石川春重⇒ 切腹
・松平新右衛門 ⇒ 大樹寺で切腹
・小谷九朗左衛門 ⇒ 逃亡
【武田軍の動き】
・大岡弥四郎の作戦を聞いて出陣済
・計画露見後 ⇒ 二連木(豊橋市)攻撃へ変更 ⇒ 長篠城へも攻撃
ちなみに、この時の岡崎城主は17歳だった家康の嫡男・信康。
(家康は浜松城・築山殿と信康とは別居状態)
信康家老の石川春重や家老の鳥居九兵衛の家臣、岡崎町奉行の人間が参加していたため、
信康家臣団による謀反だったと考えられています。
17歳という若さのため、
信康本人の関わりは、無かったと有力視されています。
築山殿の事件への関わり
事件は未然に防がれますが、
実は、事件に築山殿が裏で大きく関わっていたのです。
『岡崎東泉記』に以下のような記事があります。
此の節(天正3年) 御前月山様御留守にて、殊に御中も不和成りし、其の節甲州より口寄せ巫女あまた来たりて、家中・町・村を廻り口寄せけり、此の時勝頼より巫女を騙し、月山殿の御内にて下女に色々とらせて取り入り、下女より中間に取り入り、後は奥上﨟達迄に各々進物を致し取り入り、終には御前様御目見え申し上げ、能く取り入り、折節見合わせ申し上げるは、若御前様に今度勝頼と御一味なされば、老御前は天下の御台と成り、天下無双に仰ぐべし、若殿は若君と仕り、天下を相譲るべし、と申し、其の比西慶と申す唐人医有りて、御屋敷に節々出で御前様の御意に入り、是を談合まき入り(『岡崎東泉記』)
※築山殿 ・ 五徳(信康の妻・織田信長の娘) ・ 松平信康
概略は上記の通り、
巫女を通して、築山殿が懐柔され、信康家臣団へまで手が伸びていったと言います。
築山殿が裏側で積極的に武田方への誘致をしている姿が想像できます。
築山殿暗躍の結果、実行者した家臣団代表が大岡弥四郎だったのでしょう。
「そのようなこと信じるの!?」と思いますが、この時期は徳川家が劣勢のため、
徳川家の滅亡を覚悟していたのではないでしょうか。
築山殿にとっては、
徳川家滅亡・嫡男の信康が死することなど考えられなかったのだと思います。
(現代の私たちは徳川家康が天下を取ることを知ってますが、当時は誰も知らないですよね…)
築山殿は武田家に内通することで、
信康を武田氏のもとで存立させることを願ったのでしょう。
事件発覚後、
事の大きさの割には、処罰されたのは中心メンバーだけで、
信康はもちろん築山殿は特に罰を受けていません。
これは、武田家との抗争中のため、極力穏便に事を納めたのだろうと思います。
築山殿を処罰すると徳川家を2分する大混乱が起きる可能性がありました。
岡崎(信康) VS 浜松(家康)
これだけは避ける必要があります。
穏便な処分となりますが、
事件をきっかけに
更に家康との関係が悪化していきます。
別居のためコミュニケーション不足に加え、裏切り行為…
家康の不信感は高まっていきますね…。
家康から殺害命令
大岡弥四郎事件後、
徳川家康は長篠の戦いに勝利します。
一息つけるかと思いきや、
信康と五徳の夫婦喧嘩をきっかけに大事件に発展していきます。
『岡崎東泉記』にこんな記事があります。
信康が爪楊枝を使用していた際に、五徳に築山殿にも取ってあげるようにと言ったのに五徳は返事さえもしなかった。
その態度に、信康が五徳を叱りつけ、五徳がそのことに腹を立てた。
この些細な喧嘩から立腹した五徳は信康の行状を書いて父の信長に差し出し、
家康の家老・酒井忠次に連絡が入ります。
手紙の内容は
①鷹狩で獲物が取れなかった腹いせに、帰り道に出会った僧侶を馬に縛って引きずり殺した。
②踊りが下手だと言い、町の踊り子を弓で射殺した。
③家康から不信に思われていること。
④築山殿の不行儀。
⑤武田家から唐人医を召し寄せて謀反を企てたこと。
等、12か条に及びました。
天正6年(1578年)頃ですが、この手紙により、
築山殿の武田家との内通が信長の知るところとなってしまったわけです。
手紙を読んだ信長は忠次に対して真偽を尋ね、10か条「その通りです」と答えました。
結果「信康に切腹させよと家康に伝えよ」と命じられます。
これを受けて家康は、
天正6年(1578年)9月5日、三河衆の岡崎城下屋敷での居住を禁止して、本領での居住を命令。(『家忠日記』)
「大岡弥四郎事件」以来、信康・築山殿への不信感を募らせており、
その対応として家臣団との分断を実施したのです。
しかし、あくまで分断をしたのみで、
信康・築山殿に対して処罰をしていません。
また、周辺国との戦いのため、
三河(岡崎)をまとめる嫡男・信康は必要だったため
すぐには切腹の命令は出さなかったようです。
家康の決断
処罰の動きを加速させてしまう2つのきっかけがありました。
①三男秀忠(幼名は長丸)の誕生
②北条氏との同盟の成立
三男秀忠は天正7年(1579年)4月7日に誕生。
母は「於愛の方」「西郷局」と呼ばれた女性で、家康は新しく嫡男にする子どもができたと考えた可能性があります。
さらに、翌年には四男忠吉(幼名は福松丸)も同母より生まれています。
次に、北条氏との同盟は天正7年(1579年)正月頃から交渉開始。
9月4日には成立しています。
徳川家単体で武田氏に対抗しなければならない状況の打開策が見えました。
つまり、今までは三河をまとめていた信康の役割が不要になりました。
むしろ、家中の不和の象徴になりかねない(実際になってしまった)
信康や築山殿の存在に対する危機感が増加していきました。
築山殿の最期
いよいよ、家康は信康・築山殿を処刑する決断をします。
天正7年(1579年)8月3日:家康は浜松城から岡崎城へ移動
翌日4日:信康を岡崎城から追放 ⇒ 大浜(愛知県碧南市)に移しました。
このことを酒井忠次を使者として、織田信長にも報告しています。
6日:岡崎城在版を松平康忠や榊原康政と定める
9日:信康を遠江堀江城(静岡県浜松市)に移す ⇒ 自らの監視下に置く
築山殿は、しばらく築山屋敷で幽閉された後、
岡崎から浜松へ移されます。
8月29日、移送途中、小藪村というところで
家康の命令を受けた野中重政に殺害されてしまいました。
築山殿38~40歳のことでした。
そして、信康も二俣城に移され、
9月15日に切腹し、21歳の生涯を閉じました。
↓築山殿が殺害された小藪村周辺。血の付いた刀を池で洗ったと伝わります。
まとめ
以上、築山殿が関わった謀反事件「大岡弥四郎事件」を中心に夫に殺害される「築山殿事件」まで解説しました。
本当に家康は築山殿の殺害まで望んだのかは謎に包まれています。
もし、最初から望んでいたのであれば、信長への発覚からすぐに実行に移したのではないかと思います。
五徳の手紙から殺害まで約1年の期間がありました。
関係が悪化していたのは確かですが、
もしかすると、家康の殺害ではなく、
人生に絶望した築山殿が絶望して自殺をしたのかもしれません…。
かなりの期間を開けてから追放、殺害されているので、悩みに悩んだ結果だったのかもしれません。
いずれにしてもとても悲しい出来事です…。
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