家康の母・於大の方。兄・水野信元に翻弄された生涯を家系図付で解説!

NHK大河ドラマ

大河ドラマ「どうする家康」で松嶋菜々子さんが演じた、家康の母「於大おだいの方」。

松本潤さんとかつては、ドラマ「花より男子」の姉弟役から親子役ということでも話題になりました。

でも、「はじめて名前を聞いた」「家康のお母さんなんて注目したことが無い!」等、どのような人物か知らない方も多いのではないでしょうか?

戦国という時代の波に振り回され、その過程で天下人を出産した女性です。

於大の方がどういう女性だったか紹介していきます!

出身は?

家康の母・於大の方は
尾張国緒川城主・水野忠政の娘として誕生します。

享禄元年(1528年)のことでした。

母は源応尼といい、後に忠政と離婚して、松平清康(家康の祖父)に嫁ぐことになります。(水野家・松平家友好のため)
また、徳川家康がまだ竹千代と名乗り、駿河の今川義元のもとで暮らしていた時の養育を務めた人物でもあります。

↓家康の青年時代の記事も参考にしてください!

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於大の方には、異母兄の水野信元がいます。

この信元の存在により、於大の方の人生は翻弄されることとなります。

於大の方の出生地
緒川城址の前は公園となっています。行きつくまでに急斜面があり、城として堅固な守りをしていたのだろうと思われます。

↓於大の方の出生地・緒川城

松平広忠と結婚

天文10年(1541年)、於大の方は、三河国の岡崎城主・松平広忠のもとへ嫁ぎます。

於大は14歳広忠16歳のことでした。

翌年の天文11年(1542年)12月26日、三河国松平家の嫡男を出産します。

この子が後の天下人・徳川家康です。

この時、産所の魔除けのための蟇目ひきめの役は石川清兼、へその緒を切るのに用いる胞刀ほうとうの役は酒井正親が務めました。

その後、七夜(産後7日目のお祝い)の際に竹千代と名付けられました。

於大の方は家康を溺愛しており、三河国妙心寺に薬師如来の銅像を奉納して竹千代の長生きを祈念したと伝わっています。

↓於大の方と松平広忠がすごした岡崎城

松平広忠と離婚

天文13年(1543年)、於大の方の父・水野忠政がこの世を去ります。
跡を継いだのは、
於大の方の異母兄・水野信元でした。

信元は、松平広忠が頼りにしていた今川氏ではなく、尾張国の織田氏へ急接近しました。

この方向性に広忠は激怒。

なんと於大の方を離縁し、実家の水野家に帰してしまいます。

この時、家康3歳
於大の方もまだ16歳のことでした。

岡崎城から実家へ送り届けられる際、於大の方の思慮深いエピソードがあります。

岡崎の御家人に対して、
「わが兄下野殿(信元)は極めて短慮の人です。岡崎衆が私を送りに来たと聞いたら、必ず怒り、一人ずつ切り捨てられるか、髪を剃って辱めるか、二つしかないはずです。私だけ縁尽きて実家へ帰されるとしても、竹千代を岡崎に留め置けば、岡崎衆を他人とは思わないでしょう。下野殿と竹千代とは叔父甥だから和睦も叶います。下野殿がおまえたちを成敗しては、後の和睦の妨げとなります。速やかに私を捨てて帰るように」と言い、
どんなに説得しても聞き入れず、御家人たちは仕方なくその土地の者たちに輿を渡した。なおも心配で、陰に身を潜めて様子を窺っていると、思ったとおり刈谷より鎧兜に身を固めた者どもが2,30人出ていた。
「送りの者を打ち捨てよ」と信元の命令を受けているので、「岡崎衆らはどこにいるのか」といぶかる。
於大の方が輿の中から「岡崎衆は早くに私を見捨てて帰ってしまい、今頃はすでに岡崎へ至っていると思います。追いかけてもむだでしょう」と伝えた。
刈谷衆は仕方なく輿を守り刈谷へ帰った。

於大の方の危険予知・思慮深さがうかがえるエピソードです。更に続きがあります。

於大の方の姉は形原家広の妻でした。広忠が於大の方を離縁したのに倣い、家広も「私もまた水野の縁に繋がってはならない」と、妻を刈谷に送り返した。信元は大い怒って、送りの者を一人残さず切って捨てた。この結果、「広忠の北の方(於大の方)は女ながらも、海道一の弓取りと呼ばれた名将の母でいらっしゃり、たいそう素晴らしい思慮だ」と、感嘆しない人はいなかったと言う。

離婚後の於大の方は、三河国刈谷城周辺の椎の木屋敷に住んだと伝わっています。

↓椎の木屋敷

久松俊勝との再婚

天文16年(1546年)、またもや兄・信元の意向を受けて於大の方は結婚が決まります。

相手は阿久比城主・久松長家後の俊勝

於大の方19歳、俊勝21歳のことでした。

2人の間には、3男3女が儲けられました。
於大の方が生んだ男子には後に松平姓を名乗り、久松松平家と呼ばれるようになりました。

家康との再会

永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いにて今川義元が敗死します。
当時、家康は今川方として出陣してましたが、5月23日、岡崎城へ入城します。

この出陣を機に、於大の方のいる阿久比城へ立ち寄ることにしたと伝わっています。

家康が阿久比城へ連絡を入れると、於大の方は非常に喜んだと言います。

久松俊勝は水野氏の旗下に属して織田方でありましたが、血縁であることに間違いないので、対面の用意をしてくれました。

家康が到着すると、お互い泣いたり笑ったりしながら18年来の思いを話し合ったそうです。

この時、母・於大の方の近くにいた男の子3人。
後の康元・勝俊・定勝とも対面したと伝わっています。

真ん中の勝俊は永禄6年(1563年)に今川家の人質となります。
その後、武田信玄の駿河侵攻により、今度は甲斐国に送られてしまいます。
家康によって甲斐脱出に成功するも、冬の峠道を越える際に、凍傷で指を失ってしまいました。

最年少の定勝は後に、小牧長久手の戦いの後、豊臣秀吉への養子(人質)となる予定でした。
これに於大の方が大反対して家康に断念させました。
「勝利を人質に出して足の指を失ったので、定勝を他国にやりたくない!!」という理由でした。

晩年

↑晩年の於大の方

晩年の於大の方は、徳川氏のために行動をしていたようです。

関ケ原の合戦後の
慶長7年(1602年)には、豊臣秀吉の正室・高台院(寧々)に拝謁したり、
豊臣秀吉を祀っている豊国神社に詣でて豊臣氏に対して敵意が無いことを示しました。

同年8月28日に京・伏見城にて75歳の生涯を閉じました。

遺骨が江戸の小石川にある傳通院に埋葬されました。
於大の方の晩年の通称傳通院でんつういんから院号をとったと伝わっています。

まとめ

以上、徳川家康の母・於大の方の生涯について解説しました。

戦国時代の女性だったため、実家の都合で結婚・離婚と振り回された人生でした。

しかし、持ち前の思慮深さにより、戦国の世を渡り歩き、強く生きた女性でした。

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