元亀元年(1570)織田信長は越前の朝倉義景攻めを実施します。
しかし、身内の浅井長政が裏切りにより、命からがら京都へ逃げ延びました。
この記事では戦国三英傑が成し遂げた撤退戦「金ヶ崎の退き口」とはどのような戦いだったのでしょうか?
地図を使ってわかりやすく解説します!
金ヶ崎の退き口のきっかけは織田信長が将軍に出した「5か条の条書」
将軍・義昭との対立の象徴「5か条の条書」
最初に金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)が起きた背景を知るために、少し遡って説明します。
永禄11年(1568)9月26日、織田信長は足利義昭を奉じて京都へ入洛しました。
同年10月18日には義昭は15第室町将軍に就任することとなりました。
しかし、義昭も幕府も自力で天下静謐を実現する力がなく、次第に存在感が強まる信長と対立が生まれていくことになります。
その象徴が、元亀元年(1570)正月23日に明智光秀宛に出した「5か条の条書」です。
①諸国へ御内書を以て仰せ出さるる子細あらば、信長に仰せ聞かせられ、書状を添え申すべき事
②御下知の儀、皆以て御棄破あり、その上御思案なされ、相定めらるべき事
③公儀に対し奉り忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候といえども、領中等これなきにおいては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべき事
④天下の儀、何様にも信長に任せ置かるるの上は、誰々にも寄らず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事
⑤天下御静謐の条、禁中の儀、毎事御油断あるべからざるの事
①~④条を見るに、信長は義昭の将軍としての行動を封じようとしています。
①では手紙を出すにも信長に内容を把握され、②では今までの義昭の命令は全て無効としています。
また、④は「天下のことは全て信長に任せたのだから誰であっても将軍の意見を聞かずに信長が成敗する」ととても強烈なものでした。
前置きが長くなりましたが、この条書と対応して同日付で出された信長の手紙があります。それこそが金ヶ崎の退き口へと繋がる越前遠征のきっかけとなる手紙です。
越前遠征のきっかけの手紙
元亀元年(1570)正月23日付で信長は、諸国の戦国大名に手紙を送りました。
その顔ぶれは全国広い範囲にわたります。
【宛先】…畿内の大名・国衆が中心だが、広範囲
・三河・遠江国の徳川家康
・伊勢国の北畠氏
・甲斐国の武田氏
・越中国の神保氏
・出雲国の尼子氏
・備前国の浦上氏 など
信長は何を伝えたのでしょうか?
禁中御修理、武家御用、その外天下いよいよ静謐のために、来る中旬(2月中旬)参洛すべく候の条、各々も上洛ありて御礼を申し上げられ、馳走肝要に候。御延引あるべからず候
天下静謐のための行動を起こすため、自分は上洛するので、皆さんも上洛して天皇と幕府に礼を尽くすように、との内容です。
先ほどの条書と合わせると信長は幕府の代わりとなって全国支配をしていく意気込みが見られます。
すなわち、幕府・天皇に従わない=信長に従わない者は討伐するとの宣言と言えます。
そして実際に上洛しなかった越前の朝倉義景は討伐対象となったわけです。
(踏み絵みたいなイメージですね)
ちなみに徳川家康はこの手紙を受け、3月5日には上洛し、足利義昭の前で馬揃えを披露しています。
金ヶ崎の退き口へとつながる織田信長の越前遠征
信長の上洛
各地へ手紙を出した信長ですが、上洛したのは2月30日の申の刻(午後四時)頃でした。
翌日3月1日には将軍への挨拶、参内して越前出陣への暇乞いをします。
この信長の呼びかけによって上洛した大名は以下の通り、多数に及んだようです。
・三木自綱
・北畠具房
・徳川家康
・畠山高政
・一色義道
・三好義継
・松永久秀
その他遠方の大名たちは使者を派遣
先ほども書きましたが、越前の朝倉義景は呼びかけに応じず、上洛しませんでした。
そのため、越前遠征が決行されることになりました。
ちなみに、7月10日付の信長から毛利元就宛の手紙では、「若狭の武藤と申す者が悪逆を企てているので、成敗しなさいと将軍から命令された」と当初の目的は若狭国だったとしています。
「若狭の国端に武藤(友益)と申す者、悪逆を企つの間、成敗を致すべきの旨、上意として仰ぎ出さるの間、去る四月二〇日出馬候」
「かの武藤、一向に背かざるのところ、越前より筋労(圧力)を加え候。遺恨繁多に候の間、忠地に越前敦賀郡に至って発向候」(『毛利家文書』)
明らかに反抗的な武藤友益を利用し、北陸方面へ出陣するきっかけを作り、越前攻めを実行したと思われます。
越前遠征ルート
元亀元年(1570)4月20日の早朝。信長は京都を出陣します。
3万程の大軍だったと『言継卿記』には記録されています。
【軍構成】
・信長の部将
(柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、明智光秀、木下藤吉郎など)
・大和国 松永久秀
・摂津国 池田勝正
・公家 飛鳥井雅敦
・公家 日野輝資 など
さて、越前遠征のルートは以下の通りです。(『信長公記』参照)
京都を出発した信長は琵琶湖の西岸を北上します。
①4/20 坂本を通過
②4/20 和邇に着陣。一泊
③4/21 高島の田中城に着陣。一泊
④4/22 若狭国の熊河の熊川城に着陣。一泊
⑤4/23 若狭国の佐柿の国吉城に着陣。二泊
④熊川城の真西に武藤友益の石山城がありますが、粟谷勝久が待つ⑤国吉城へ北上を続けました。
国吉城で体制を整え、いよいよ朝倉氏への攻撃を開始します。
織田信長が朝倉方への攻撃を開始
天筒山城攻撃
元亀元年(1570)4月25日、信長は周辺を駆けまわり、状況を確認した後、天筒山城(手筒山城)を攻撃しました。
天筒山城は峻険な山城でありましたが、信長はしきりに「突入せよ」と命令します。
この時、織田軍は敵の首を1,370を打ち取ったと『信長公記』は伝えています。
金ヶ崎城攻撃
翌日の4月26日、手筒山城の北西にある金ヶ崎城への攻撃を開始しました。
金ヶ崎城は朝倉義景の従兄弟・朝倉景恒が守っていました。
しかし、この城も1日持たずに開城となりました。
その南方にある疋壇城も守兵が逃亡。信長はたった2日で敦賀全域を占領する破竹の勢いでした。
このまま、木ノ芽城を攻めて木ノ芽峠を越えると朝倉義景を一気に追い詰めることができます。
実際に、4月27日に徳川家康は前衛として木ノ芽城へ到達していたと思われます。
しかし、この時思わぬ情報が信長の元に届くことになります。
金ヶ崎の退き口へ~浅井長政の裏切りと織田信長の撤退~
思わぬ情報とは、信長の義弟で同盟者の浅井長政の裏切り(離反)でした。
長政は北近江を支配していた戦国大名です。
彼の妻は信長の妹のお市の方だったため、信長は中々信じようとしませんでした。
しかし、続々と同じ報告が入ってきたためようやく「不及是非(やむをえない)」と撤退を決意します。
信長の退陣は4月28日の夜でわずかの馬廻だけを従えて、ひたすらに南へ向かいます。
浅井長政の裏切りにより、逃避行はほぼなく、朽木峠の朽木元網の出方がポイントとなりました。
元網のことは松永久秀が説得したと伝わり、幸いいも浅井氏との関係も希薄だったようです。
何とか峠を越えて、信長が京都にたどり着いたのは4月30日の亥の下刻(夜11時頃)。従う者はたったの10人ほどだったと伝わります。
↑赤色のルートが信長の逃避行。他にも琵琶湖沿いを通る2ルートが考えられますが、共に浅井氏の息がかかっており、危険だったようです。
金ヶ崎の退き口はどのような様子だったか
信長は前述した通り、一気に京都まで退陣します。
退陣に先立ち、
殿軍として金ヶ崎城にて木下秀吉(後の豊臣秀吉)、明智光秀、さらには摂津守護の池田勝正を任命しています。
殿とは退陣の際に最後尾にあって、追って来る敵を防ぐことで、非常に危険な役目です。
しかし、もっと危険だった人物がいます。
金ヶ崎城より更に越前国の中、最前衛の木ノ芽城にいた徳川家康です。
置いてけぼりの徳川家康の退き口
家康は位置だけでも危険ですが、何と信長が撤退することを知らされなかったと伝わります。
『三河物語』ではこの時の様子を以下のように伝えています。
・家康を後に捨て置き、なんの連絡もなく宵の口に退却した
・夜が明けて、木下藤吉(後の豊臣秀吉)に案内させて退却した
殿軍を受け持った秀吉からの連絡で初めて信長の退却を知ったというのです。
家康は信長の家臣ではないので、これには本人はもちろん家臣団も大激怒しただろうと想像できます。
とはいえ、急ぎ撤退が必要です。
①秀吉たちのいる天筒山城・金ヶ崎城を目指す
②難攻不落の国吉城を目指す
上記2段階の撤退を実行します。
家康の撤退の様子
撤退は壮絶を極めたようです。
『朝倉義景記』には以下のように織田・徳川軍が大混乱に陥る様子を伝えています。
・親は子を捨て 郎党は主人を知らず 我一番にと引き行く(逃げた)
・進む時は鉄壁をも砕く程の猛勢も退く時は波の声も 敵の寄ると恐れをなし
・跡より(後より)味方の落来るを敵の追うかと心得て 同士討ちする族もあり
それもそのはずで、朝倉勢が迫るだけでなく、
浅井・朝倉氏の息のかかった一揆勢までが襲い掛かってきたため、全てが敵に見えたと思われます。
そんな大混乱の中でも、家康軍は勇猛に戦い、撤退をします。
その様子を『改正三河後風土記』は以下のように伝えます。
・内藤四郎左衛門正成 射芸の妙を顕いし、敵の先手若干射落す
・渡辺半蔵守綱は槍をふるって返し合せ、敵数十人突き倒す
殿軍の秀吉を助けた家康
壮絶な撤退戦を終え、国境を越えて若狭国へ入ることができ、目的地の国吉城目前まで迫った家康ですが、思いがけない場面に遭遇します。
その様子を『東遷基業』は以下のように伝えます。
・(家康軍が)木下藤吉郎の軍を顧給へば 敵兵四方より取囲み 散々に戦へどもことごとく討亡さるべし
・藤吉郎を討たせては、我何の面目を在て、再び信長に面合すべき
なんと殿軍の秀吉が敵兵に囲まれて全滅寸前になっていたのです。
信長に合わせる顔がなくなると思い、家康は自身でも鉄砲を放ち、秀吉軍を助けました。
(秀吉は)御陰を被りし事 かたじけなき次第なり
秀吉は非常に感謝したと伝わっています。
また、この話は『徳川実紀』にも記述がありますので、徳川家としても非常に重要な場面だったと言えます。
秀吉と家康は共に無事、国吉城へ撤退することができ、朝倉氏の追撃はこちらで止んだと考えられます。
(朝倉義景は過去この国吉城を落城させることができなかったため諦めたと思われます)
↓難攻不落の国吉城
↓国吉城は若狭美浜観光協会のHPにも難攻不落の城と紹介されていますね
まとめ
以上、金ヶ崎の退き口について解説してきました。
改めてまとめます。
①将軍の権威を利用し、信長が諸勢力に上洛をもとめます
②上洛に応じなかった朝倉義景の討伐を決定(名目は武藤友益の討伐)
③同盟者の浅井長政の裏切り
④信長が瞬時に撤退を決定(家康には知らされず)
⑤殿軍は木下秀吉、明智光秀、池田勝正
⑥難攻不落の城・国吉城まで撤退
戦国三英傑が一堂に会した越前攻めですが、思わぬ裏切りにより全員が大ピンチに合いました。
しかし、信長の素早い撤退、秀吉・家康の意地によりこの危険な撤退戦を成功させることができました。
これが後世に「金ヶ崎の退き口」と呼ばれることになったのです。
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