1864年の池田屋事件とは?新選組の戦闘を地図と間取り図で解説

幕末

元治元年(1864年)6月5日、幕末の京都で発生した「池田屋事件」。

新選組を一躍有名にした尊攘倒幕派への大捕り物として有名な事件ですが、内容を知らない方も多いのではないでしょうか。

・事件の名前なら聞いたことがある・・
・なぜ起きたの?
・池田屋ってどこ? 

等たくさんの疑問があると思います。
今回は事件発生までの経緯や新選組隊士たちの戦いぶりを地図や間取り図を使って解説します!

池田屋事件の背景は?

八月十八日の政変~長州藩士の追放~

文久3年(1863年)8月18日、京都を揺るがす一大政変が勃発します。

「八月十八日の政変」です。この政変が後に池田屋事件の原因となるのです。

当時の京都は政治の中心。

その京都では尊攘倒幕派の長州藩が公家と手を結び、政局をリードしておりました。

しかし、長州藩が突出することを嫌う勢力が存在しました。

時の天皇、孝明天皇です。

実は、孝明天皇は徳川幕府との協調路線を取ることを望んでおり、新選組を管轄する会津藩に尊攘倒幕派に対抗することを含ませます。

孝明天皇の意向を受けた会津藩は、同じく長州藩の突出を嫌う薩摩藩と提携します。この対抗勢力を公武合体派と呼びます。
そして、公武合体派は長州藩や公家を一気に京都から追放しました。

つまり「八月十八日の政変」は公武合体派による巻き返しのクーデターでした。

クーデターにより、会津藩・薩摩藩ら公武合体派が政局をリードし、京都には長州藩士はいなくなりました。

しかし、長州藩士が続々と京都に戻ってきているという情報が多数入り、尊攘倒幕派を取り締まる立場である新選組は多忙を極めるようになります。

そして、今回のテーマである「池田屋事件」に繋がっていきます。

長州藩士の京都潜伏

前述の通り、新選組は取り締まりを続け、徹底した諜報活動を続けていました。

八月十八日の政変から約8か月後の元治元年(1864年)4月22日。

不審者を発見し、尋問を実施し、衝撃の自白を聞き出します。

「長州人250名が京都に潜伏している

この情報に新選組は直ちに幕府サイドにも報告し、山崎丞・川島勝司・浅野薫・島田魁といった監察要員が日夜探索活動を続けました。

更に、6月1日。尊攘倒幕派の大物・宮部鼎蔵ていぞうの下僕を市中で捕縛します。

下僕存在から宮部が京都に戻っている可能性が高い。

そして先ほどの長州人潜伏情報が確実となり、新選組では更に緊張が走ります。

翌日、翌々日にも2名の不審者を捕縛し、具体的な計画を聞き出します。

「京都市中の他、伏見・大阪にも倒幕派が結集中」

「京都を放火し、騒ぎに乗じて公武合体派の公家や大名を殺害する」

鬼の副長 土方歳三の拷問

緊迫した状況が続く中、薪炭商を営む桝屋喜右衛門ますやきえもんという人物が浮上します。

6月5日の早朝、新選組の武田観柳斎を含む8名が桝屋に押しかけ、屯所へ連行します。

屯所では鬼の副長・土方歳三による執拗な拷問が開始します。

『新撰組顛末記』によると、土方は古高の足の裏に釘を差し、更にはろうそくを立てて火をつけたと伝えています。

【拷問結果】
①自分は近江出身・古高俊太郎
②自分は武器保管場所の提供者にすぎない
③計画の自供
 ー「大風の日に京都御所に火をつけ、混乱に乗じて公武合体派の人物を殺害。勢力を挽回する」

【自宅からの押収品】
①十組ほどの甲冑
②23挺の鉄砲
③多量の火薬類
④多数の書類
 ー「烈風を期とすべし」「機会を失わぬよう」など記述有

先日の捕縛者の証言ともリンクし、6月7日の祇園祭に計画を実行するとの情報も。
拷問による成果はあったものの、新選組は状況の悪さに戦慄します。

混乱する新選組に対し、更に追い打ちをかける情報がもたらされます。

先ほど封印したばかりの桝屋の土蔵に何者かが侵入し、甲冑や鉄砲が奪い去られたと・・。

まさに一触即発の状況に、新選組は会津藩に対し、会津藩及び幕府勢力の即日出動を要請します。

池田屋事件に至る捜索

出動計画

新選組からの出動要請を受けた会津藩主/京都守護職である松平容保は幕府勢力に緊急出動を厳命します。

【出動計画】
集合場所:祇園町会所
集合時間:夜五つ時(午後8時頃)

①新選組は昼頃から個別に集合場所へ向かう(目立たないように
②新選組は四条より押しあがり(北上)『改訂肥後藩国事史料』
③会津人数は二条辺より押し下がり(南下)『改訂肥後藩国事史料』

出動にあたり、非常に具体的に計画していたことがわかります。

新選組と会津藩は南北からのローラー作戦による「御用改め」を計画し、潜伏する長州人を一網打尽にしようとしていたと思われます。

ちなみに「御用改め」=「斬り捨て御免」ではありません。

よくテレビドラマでは「御用改めである」から乱闘が始まるので殺害宣言のように見えますが、あくまでも捕縛宣言。「御用改め」=「お縄に付け」です。

一方の長州藩の尊攘倒幕派は古高俊太郎の奪回策などを協議するために、急遽三条通りに面した旅宿・池田屋へ集まることを決定しています。

新選組組織図と池田屋出動メンバー

先ほどの会津藩との出動計画に合わせて、新選組の出動メンバーも事前に決めていました。

当時の組織図と合わせて確認していきたいと思います。

【池田屋出動メンバー】
①近藤勇隊(10名)
近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、谷万太郎、浅野薫、武田観柳斎、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門
②-1 土方歳三隊(13名)
土方歳三、松原忠司、伊木八郎、中村金吾、尾関弥四郎、宿院良蔵、佐々木蔵之助、河合耆三郎、酒井兵庫、木内峯太、松本喜次郎、竹内源太郎、近藤周平
②-2 井上源三郎隊(11名)
井上源三郎、原田左之助、斎藤一、篠塚峯三、林信太郎、島田魁、川島勝司、葛山武八郎、谷三十郎、三品仲司、蟻通勘五

【屯所居残り】
山南敬助以下傷病人と守備の隊士

※土方隊と井上隊は同行動。事前に分隊として井上隊を準備

総勢34名という少数を2グループに分け、かなりの劣勢に置かれていることがわかります。

ちなみに、②-1の近藤周平は局長近藤勇の養子です。
池田屋事件後に近藤が地元へ送った手紙から近藤隊に所属したと良く言われます。

しかしこれは周平の地位を高めるための近藤の方便で上記のメンバーが正しいです。

近藤勇隊と土方歳三隊のルート

雨が止んだ昼を過ぎると、新選組隊士は各々集合場所に向かい、防具を着込み出動に備えています。

祇園町会所で会津藩を待つはずだった新選組ですが、待ちきれず夜六つ半時(午後7時頃)に単独出動を開始します。

約束より1時間早いですが、会津藩主・松平容保の体調不良や藩内慎重派による万が一の中止を恐れたのかもしれません。

理由は定かではありませんが、出動した新選組は2グループで祇園町会所を北上していきます。

当然、この時、目標が「池田屋」であることは誰も知る由もありません。

実際のルートはこちらです。

ちなみに、現在は池田屋は無く、碑が建っているのみです。

池田屋での戦闘

突入への準備

雨上がりの蒸し暑い中、近藤隊・土方隊は徹底的に捜索を続けます。

そして、池田屋到着したのは近藤隊。時間は夜四つ時(22時頃)でした。

出発から既に3時間経過しており、体力をかなり消耗していたと思われます。

それでも近藤隊はすぐに突入せず、冷静な対応をします。

事前に隣家から池田屋の間取のヒアリングを実施。

更に、以下の通り事前に隊士の配置も整えています。

突入メンバーは局長の近藤勇以下、沖田総司・永倉新八・藤堂平助と組頭ばかりの強者です。

この時、永倉新八の手記によると池田屋にて長州の志士らが密会しているという情報を得ていたと言います。

また、暑い夜のため窓が開けられており、会合の様子が聞こえていた可能性もあります。

事前情報からこのメンバーにと決めたのかもしれません。

いよいよ池田屋に突入します。4人は表口から入りますが、ここでもいきなり踏み込むことなく、玄関にあった鉄砲や槍などの武器を先に押収しています。

戦闘開始

2階での初戦

玄関で主人の池田屋惣兵衛を呼び、「今宵旅宿御用改め」と告げると驚いた惣兵衛は奥の2階へ走ります。

それを近藤と沖田が追いかけます。

2階に上がると奥の間で宴会をしていた長州系志士(尊攘倒幕派志士。以下志士)約20名が一斉に抜刀。

そこで近藤が「御用御改めである手向かい致すにおいては容赦なく斬捨てる!」と大声で一括します。

今回の新選組の目的はあくまでも「御用改め=捕縛(逮捕)」ですが、一同が抜刀したので、近藤は警告を発したのです。

一同は怯むものの、斬りかかる志士が一人。

その者を沖田がすかさず一刀のもとに斬り伏せ戦闘が開始します。

沖田の腕を見た志士たちは早くも1階への逃亡を計り、戦闘の中心は階下へ移動します。

しかし、その沖田もまた昏倒し、いきなり戦線離脱をしてしまいます。

原因は熱中症。

厚い中3時間も緊迫した捜索を続けていたので無理はないですが、エース級の沖田の戦線離脱は新選組にも大きなショックを与えたことでしょう。

1階での中盤戦

逃げる志士を見た近藤は冷静に持ち場を3つに分ける(担当は以下の図)指示を出し、抵抗する志士と奮戦します。

【近藤勇の戦闘】
・担当:1階奥の間
・見事十五人の胴骨を料理(『同方会談』:事件後の本人の手紙)
鋩子ぼうし(刀の先)よりつばもと(刀の根本)まで、のこぎりのように欠損したり
(『同方会談』:事件後の本人の手紙)
・実にこれまでたびたび戦い候えども(中略)誠に危うき命を助かり申し候(本人談)
・奥の間には大勢敵がおり、3度ばかり斬られそうになる(永倉談)

本人の手紙のため人数などオーバーな表現もありますが、刀がボロボロになるほど斬り合い、命の危険も感じていたようです。

それでも近藤は無傷で戦闘を続けます。

【永倉新八の戦闘】
・担当:台所~表口
・表口へ逃げる志士を肩から袈裟懸けにする
・便所に逃げ込む志士を串刺し
・裏庭にいる藤堂に助太刀
・手の平を負傷
・刃こぼれしたため、敵の刀を分捕って戦闘継続

永倉は表口から裏庭の助太刀まで大立ち回りを演じます。

負傷をするも近藤と共に戦闘を継続し、新選組の戦いを支えます。

【藤堂平助の戦闘】
・担当:裏庭
・裏庭は高瀬川への舟入りへ通じ、長州藩邸にも近く志士が殺到
・刀は、刃切れささらのごとく(近藤談)
・槍を打ち落とされ、それより深手を受け申し候(近藤談)
 ー 刀が使えなくなったため、槍に持ち替えて戦闘
・垣根際で志士に眉間を斬られ重傷

藤堂は志士が殺到する中、奮闘するも重傷を負って戦線離脱をしてしまします。
中盤の戦闘により屋内は近藤と永倉の2名のみとなってしまします。

【表口の戦闘】
・谷万太郎が逃げ出そうとする一人を槍で突き、永倉が追い打ちで斬捨てる
・表口担当の武田観柳斎は、終盤に屋内へ入り天井裏から落ちてきた志士を斬捨てる
(増援後に屋内へ入り、それまでは表口固めをしていたと思われます)

【裏口の戦闘】
・新田革左衛門:重傷を負い、治療を受けるも7月下旬に死亡
・奥沢栄助:死に物狂いの有志に切り立てられ、奥沢栄助は所たちに重症を蒙り即死
・安藤早太郎:屋内での戦闘に参加し負傷。7月下旬に死亡

表口や裏口の戦闘の詳細は伝わっていませんが、藤堂と同様に裏庭に志士が密集したと思われ、裏口担当の全員が死亡しています。

終盤戦~土方隊と井上隊の合流

戦闘が激化する最中、事態を聞きつけた土方隊と井上隊が合流します。

ここでも屋外は土方隊、屋内は井上隊と役割分担をしっかりと行っています。

合流を受けて、表口を固めた隊士と共に井上隊の隊士が屋内の戦闘に参加します。

近藤・永倉にとってはありがたい増援でした。

島田魁は槍を切り落とされるものの刀に持ち替えて志士を斬ります。原田左之助も逃げる志士を槍で仕留める活躍を見せています。(前述の武田観柳斎の活躍はこの時点と思われます)

土方隊は屋外を固め、逃げる志士の捕縛に尽力し、更に遅れて会津藩等の兵も合流して、事態は収束していきました。

戦闘時間は約2時間。

出動から約5時間におよぶ大捕り物でした。

池田屋事件の結果

事件後の池田屋の屋内は凄まじい修羅場を物語っていました。

斬られたびんまげ)が散乱していたり、障子が倒れ部屋が血で染まっていたと伝わります。

その事件の結果が以下の通りです。

【長州系志士の状況】
・会合参加者:34名(長州・土佐脱藩など)
 ー即死者:6名
 ー重傷後死亡者:5名
 ー逮捕者:23名

【新選組の状況】
・即死者:1名(奥沢栄助)
・重傷後死亡者:2名(新田革左衛門、安藤早太郎)
・重傷者:1名(藤堂平助)
・軽傷者:2名(沖田総司、永倉新八)

長州系志士の被害状況は諸説あり、正確な数字はわかっていません。

しかし、大物の肥後脱藩の宮部鼎蔵や長州藩士の吉田稔麿が死亡していることは確実で、志士たちにとっては大きな損害となりました。

これ以降、長州藩は辛酸をなめ続けることとなり、新選組は長州系志士の憎悪の対象となっていきます。

一方、新選組は世間にその名を一気に轟かせます。

朝廷や京都守護職/会津藩主松平容保から絶賛されその勢いは絶頂を迎えることとなります。

まとめ

以上、新選組を有名にした池田屋事件を紹介しました。

池田屋事件とは公武合体派と尊攘倒幕派の政治権力争いから派生した街中の大捕り物でした。

新選組は少人数でありながら、事前準備を怠らず被害を最小限に抑える。そして成功確率を限りなく上げるためのマネジメントを実施していた組織でした。

強者揃いの剣客集団というだけでなく、冷静な運営ができる組織だったので、新選組は恐れられたのだと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました