土方歳三たち旧幕府軍はどのように函館・五稜郭へ入城したか解説!

幕末

戊辰戦争時、函館・五稜郭は旧幕府軍の本拠地だったことは有名です。

しかし、明治元年(1868)10月19日、旧幕府軍の蝦夷上陸時点では新政府の拠点でした。

そのため、土方歳三をはじめとした旧幕府軍は3分の1の兵力を投入して、五稜郭の挟撃作戦を実行しました。

今回は意外と知られていない旧幕府軍の五稜郭入城までの進軍を解説していきます。

①蝦夷地・鷲ノ木へ上陸した旧幕府軍は五稜郭へ向けて2手に分かれて進軍
 -大鳥圭介と土方歳三が各軍を率いた

②各地で激戦。箱館戦争が勃発
 -最大の激戦地は七重村

③新政府の守備隊は逃走

④10月25日 旧幕府軍は五稜郭へ無血入城

旧幕府軍艦隊の蝦夷地・鷲ノ木上陸

明治元年(1868)10月12日、旧幕府軍艦隊8隻が仙台折浜を出航し、蝦夷地の鷲ノ木へ向かいました。

19日、甲賀源吾率いる回天丸が1番乗りで鷲ノ木に到着。

続いて20日に榎本武揚率いる旗艦である開陽丸が到着し、23日までに全艦が集結しました。

上陸時、旧幕府軍が五稜郭に近い箱館港を目指さなかった理由は大きく2つ挙げられます。

①新政府軍の拠点・五稜郭の守備隊との直接の軍事衝突を避けた

②箱館港はペリー来航にて開港された国際港。砲撃戦による国際紛争を避けた

この理由により、五稜郭から10里(約39㎞)程も離れた鷲ノ木へ上陸となったのです。

五稜郭を目指した旧幕府軍艦隊(海軍)は?

旧幕府軍の艦隊は8隻の堂々たるもので、鷲ノ木村の人々は「黒船が来た!」と大騒ぎになったと伝わります。

特に、徳川最強の旗艦である開陽丸はオランダで製造された最新鋭。
さらには35門もの大砲を搭載しており、新政府軍を恐れさせる迫力をもった軍艦でした。

その他上陸を果たした軍艦は、箱館戦争で活躍する回天丸や幡龍丸など以下の通りです。

開陽・・オランダ製。徳川最強の旗艦。35門の大砲

回天・・ドイツ製。13門の大砲。

幡龍はんりょう・・イギリス製。ビクトリア女王から幕府へ贈答

長鯨ちょうげい・・イギリス製

⑤神速・・アメリカ製

大江たいこう・・アメリカ製。運送船

⑦回春・・運送船

鳳凰ほうおう・・運送船

五稜郭を目指した旧幕府軍陸軍は?

つづいて、旧幕府艦隊に乗り込み、上陸した陸軍は以下の通りです。

構成員は旧幕臣がほとんどです。

加えて、京都から土方歳三と運命を共にしてきた新選組や桑名藩。
今後土方と行動を共にする仙台藩の額兵隊など反新政府勢力が上陸しました。

陸軍総数は約2,500名に上り、海軍と合わせて3,000名強の勢力です。

旧幕府陸軍の五稜郭までの進軍経路

明治元年(1868)10月20日。

先行して遊撃隊の人見勝太郎と伝習歩兵隊の本多幸七郎が精鋭の30名を率いて五稜郭へ向かいました

目的は旧幕府軍の使者として、箱館府知事の清水谷公考しみずたに きんなるへ嘆願書を提出することでした。

嘆願内容は「蝦夷地の下付」

すなわち、「戦争ではなく、蝦夷地の開拓が目的」とのことです。

ただし、断られることは明らかだったため、形式上の意味合いが強いです。

2日後の10月22日には旧幕府陸軍は五稜郭への進軍を開始します。

大鳥圭介率いる本道軍約750名。土方歳三率いる間道(わきみち)軍約400名が五稜郭を挟み撃ちにする作戦です。(全軍の3分の1に相当する兵力)

本道軍は人見・本多の後を追うルート。間道軍は海岸沿いを進むルートでした。

【旧幕府陸軍】
・本道軍(大鳥軍):伝習歩兵隊、伝習士官隊、遊撃隊、新選組

・間道軍(土方軍):額兵隊、陸軍隊

ちなみに、この時、土方歳三は新選組副長どころか隊長を越えて、旧幕府軍陸軍の半隊を率いるほど大きくステータスを上げています。

対する新政府軍は、1,000名程度です。

【新政府軍】

・箱館府兵:約100名

・松前藩兵:若干名

・津軽藩兵:4小隊(19日に到着)

・備後福山藩兵:約700名(20日に到着)

・越前大野藩兵:約170名(20日に到着)

旧幕府陸軍 大鳥圭介率いる本道軍の戦い

10月22日、鷲ノ木を出発した本道軍は峠下を目指して進軍を開始します。

そして、その峠下にて新政府軍の夜襲に合い、箱館戦争が勃発しました。

箱館戦争勃発 峠下の戦い

22日の夜、峠下で宿営していた人見、本多らが突然の銃撃をうけました。

攻撃をしたのは、松前藩兵と津軽藩兵。

旧幕府軍側は大混乱に陥りますが、すぐに大鳥隊の先鋒隊が駆け付け応戦し、朝方には新政府軍を退けることに成功します。

その後、軍議を開いた大鳥は軍を二手に分けることを決定。

大鳥自らは伝習士官隊を率いて大野村へ

遊撃隊と新選組は人見に預けて七重村へ進軍させました。

大鳥圭介自ら率いる伝習士官隊 大野村の戦い

大野村には新政府軍が4~500名程陣取っていました。

先発隊が進軍すると、新政府軍と接触し、銃撃戦が開始。

開始まもなく、本隊が応援に駆け付けると新政府軍はあっけなく逃走していきました。

大鳥軍は2㎞ほど追撃しますが、深追いをせず大野村の戦いは難なく終結しました。

つづいて24日には松前藩の陣屋も攻略しました。

人見勝太郎率いる遊撃隊と新選組 七重村の激戦

一方、人見率いる遊撃隊と新選組は七重村で激戦を繰り広げることとなります。

七重村は五稜郭へ通じる重要拠点のため、新政府軍の守りが厚く、高台から銃撃を浴びせてきました。

一時は敗戦の危機に追い込まれた旧幕府軍ですが、遊撃隊の大岡幸次郎、新選組の三好ゆたから勇猛な兵士たちが包囲を破ったことで流れが変わります。

奮怒の刀を振い弾丸雨注を侵し敵中に踊り入り、数十人を殺傷

『蝦夷之夢』

勇気を得た旧幕府軍は銃を捨て、一丸となって白刃で切り込み、勝利を得ました。

壮絶な戦いで、辺りの雪は血で赤く染まったと記録されています。

銃を投げ刀を振って衝き入り、縦横に馳せ回る。呼声地に震い、深雪変じて紅の如く、屍横たわって丘のごとし。南軍(新政府軍)おおいに破れて散乱す

『蝦夷之夢』

戦いの結果は以下の通り。

・旧幕府軍:戦死12名

・新政府軍:戦死19名

潮目を変えた大岡幸次郎(享年19)や三好胖(享年17)が死亡した最も激しい戦いとなりました。

旧幕府陸軍 土方歳三率いる間道軍の戦い

10月22日に鷲ノ木を出発した土方歳三率いる間道軍は、その日に砂原に着陣しました。

23日に砂原を出発し、夜に鹿部村に到着。

翌24日の暁、土方歳三は星恂太郎率いる額兵隊を先鋒として川汲かっくみへ進軍させました。

川汲の戦い

川汲に到着した星恂太郎は、隊を本道と間道の二手に分けて峠を攻め上りました。

峠は雪深く、堅い氷が鏡のようにおおっていたといいます。

寒さと危険の中を兵らは腹這いになりながら峠の頂上へよじのぼりました。

新政府軍は峠の頂上から旧幕府軍に容赦なく銃弾を浴びせます。

逃れるところも身を隠すことなく万事休すとなった旧幕府軍。

このとき、

間道をまわった一隊が、新政府軍の背後を捉え、一斉射撃を開始。

突然の攻撃に頂上の新政府軍は大混乱となります。

この機に乗じて、本道軍が一期に攻め登り新政府軍を挟撃しました。

勇猛な若者たちが先を争って突進し、銃を捨て、刀を揮って敵を斬捨てていきます。
この勢いに新政府軍は陣を捨てて散り散りに逃げおちていったのです。

戦いの結果は以下の通りでした。

・旧幕府軍:戦死0名

・新政府軍:戦死7名、負傷者10名程

額兵隊たちはそのまま峠を守り、土方歳三や陸軍隊を迎えて湯ノ川を目指して進軍を続けていきました。

旧幕府軍 五稜郭への無血入城

五稜郭の新政府軍は、続々と届く敗報により、動揺したことでしょう。

実際に箱館府知事の清水谷公考は24日夜~25日未明にかけて青森へ脱出してしまいました。

報告に来た新政府軍の一人がもぬけの殻になった城内を目にし、呆れ果ててしまう程あっさりした退却でした。

25日未明、五稜郭に進軍を開始した大鳥には「郭中に入りし敵一人もなく」(『南柯紀行』)という情報がもたらされ、難なく入城。

26日には、土方に「本道軍が五稜郭と箱館市中を手中におさめたため、速く来るように」との知らせを受け、こちらも難なく入城することができました。

同日、旧幕府艦隊の回天丸と幡龍丸が箱館港に入り、港も制圧。

箱館周辺の地は完全に旧幕府勢力が占拠することに成功しました。

【旧幕府軍を攻撃した蝦夷地の極寒】

本道軍・間道軍ともに新政府軍との衝突により死傷者が発生しました。

七重村では激戦となりましたが、結果的には順調に進軍しています。

新政府軍の抵抗もありましたが、風雪激しい極寒の気候が両軍を非常に悩ませたようです。
以下は大鳥圭介が峠下から大野村に向かう際の様子を記録した内容です。

大野村に向いしに折しも北風強く雪降り、道路は石の如くにて凍て鏡に似たり、寒気最も激しく予鳶合羽よとびがっぱを着せしが、昨日雨に遭いしにより袂も裾も皆凍りて薄板に等しく、これを畳めば折るるばかりりなり、右の如く大雪なれば十間(=18m)斗先ならでは見亘すこと能わず、

『南柯紀行』より 

また、間道軍も同様に寒さを記録しています。

寒風、肌を裂く

『星恂太郎日記』より

兵士たちが着用していたのは4月に江戸を脱走して以来の一重の着物・・。

新暦だと12月で雪が凄まじく、間道軍に関しては海風もあり、体力が極限まで削られた状態で戦闘を継続していました。

結果だけ見ると順調に見えた行軍ですが、苦労して五稜郭へ入城したことが伺えます。

まとめ

以上、旧幕府軍は仙台を出航してからわずか2週間で五稜郭に入城することに成功しました。

鷲ノ木に上陸してから、大鳥圭介(本道軍)と土方歳三(間道軍)がそれぞれに部隊を率いて五稜郭の挟撃作戦を実行しました。

大鳥圭介の本道軍は七重村で激戦となり、死傷者を多く出すものの、両軍ともに確実に勝利を収め、五稜郭へ入城したのです。

無事に本拠地を定めることに成功しましたが、休む間もなく土方歳三は松前城の攻撃へと進軍していくこととなります。

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