血縁重視の織田信長。意外と知らない23人の兄弟姉妹を家系図で紹介

戦国時代

織田信長は身分の低い豊臣秀吉を抜擢するなど「実力主義」のイメージが強いです。

しかし、実際は兄弟という血のつながった一族が重視され、重要な仕事を多く任されてました。

また、妹のお市の夫・浅井長政に代表されるように、嫁ぎ先の大名・国衆たちも優遇されています。

つまり、信長は血縁を重視していたのです。

実は、豊臣秀吉も信長の息子を養子にもらい、娘を側室にもらっており、信長と血縁を結んでました。

この記事では、意外と知られていない信長の兄弟姉妹を簡単に紹介します。

  1. 織田信長の兄弟姉妹の家系図
  2. 織田信長の長兄 織田信広~凡庸の烙印を押された兄~
  3. 織田信長の次兄 織田秀俊(信時)~痴情のもつれにより殺害される~
  4. 織田信長の長弟 織田信勝(信行)~唯一信長に殺害された弟~
  5. 織田信長の次弟 織田秀孝~馬に乗っていたら誤って射殺された~
  6. 織田信長の三弟 織田信包(長野信良)~長寿の弟 大坂の陣直前で死亡~
  7. 織田信長の四弟 織田信治~信長最大のピンチ志賀の陣で討死~
  8. 織田信長の五弟 織田信興~長島一向一揆での織田一族最初の被害者~
  9. 織田信長の六弟 織田信照(中根信照)~愚鈍な人と称された弟~
  10. 織田信長の七弟 織田秀成(津田秀成)~長島一向一揆で討死~
  11. 織田信長の八弟 織田長益(織田有楽斎)~茶人として大成した弟~
  12. 織田信長の末弟 織田長利(津田長利)~本能寺の変で討死した弟~
  13. 織田信長の姉妹① 神保氏張室のち稲葉貞通室
  14. 織田信長の姉妹② 犬山殿、織田信清室
  15. 織田信長の姉妹③ 斎藤秀龍室
  16. 織田信長の姉妹④ 遠山直廉室
  17. 織田信長の姉妹⑤ お市の方、浅井長政室のち柴田勝家室
  18. 織田信長の姉妹⑥小田井殿、織田信直室
  19. 織田信長の姉妹⑦ 小幡殿、織田信成室
  20. 織田信長の姉妹⑧ お犬の方、佐治信方室のち細川信良室
  21. 織田信長の姉妹⑨ 津田出雲守室
  22. 織田信長の姉妹⑩~飯尾尚清室~
  23. 織田信長の姉妹⑪~野夫殿、津田元嘉室~
  24. 織田信長の姉妹⑫~小林殿、牧長清室~
  25. まとめ

織田信長の兄弟姉妹の家系図

織田信長には23人の兄弟姉妹がいます。

信長自身は信秀の三男として誕生し、嫡男として育てられました。

兄・2人:信広秀俊

弟・9人:信勝秀孝信包信治信興信照秀成長益長利

姉妹・12人:神保氏晴室のち稲葉貞通室犬山殿斎藤秀龍室遠山直兼室お市の方小田井殿小幡殿お犬の方津田出雲守室飯尾尚清室野夫殿小林殿

(名前をクリックすると各人物のページにジャンプします)


織田信長の長兄 織田信広~凡庸の烙印を押された兄~

通称:三郎五郎、大隅おおすみ

生年:不明

没年:天正2年(1574)9月29日

死因:長島一向一揆で討死

信長の1番上の兄は織田信広のぶひろです。(父・信秀の長男)

信長に詳しい方には徳川家康(当時は竹千代)と人質交換された人物として良く知られています。

一般的には信広は側室の子(庶子しょし)で凡庸な人物だったため、後継者になりえなかったと考えられています。

しかし、天文9年(1540)6月に三河安城城という国境の重要拠点の城代をつとめており、父・信秀の期待値が非常に高かったことがわかります。

信広の生年は不明ですが、信長はこのときまだ7歳のため、かなりの年長だったと考えられます。

ただ、天文18年(1549)11月、今川軍に三河安城城を囲われ、人質となるという失態を犯したため、凡庸のイメージがついてしまいました。(このあと竹千代との人質交換がされます)

父・信秀の死後は当主・信長に敵対行動をはじめました。

弘治2年(1556)、美濃国の斎藤義龍と共謀して信長の清州城を陥れようとしました。

しかし、やはり凡庸な将だったのか、信長に軽く見破られてあっさり未遂におわります。

信長は信広に敵対されながら、殺害や処分をすることなく重用しつづけます。

血縁を重視していたことの証拠です。

その後の主な信広の活動は以下の通りです。

  • 元亀3年(1572)美濃岩村城を守るも武田軍の猛攻にあい、落城
  • 元亀4年(1573)4月、信長の名代として将軍・足利義昭に謁見
  • 天正2年(1574)9月26日、長島一向一揆攻めで先鋒をつとめる
    →討死

信長の上洛後は一部将として活躍し、信長最大のピンチである元亀年間も支え続けました。

「信長の兄」という肩書も有効だったと思われ、名代もつとめますが、

最後は長島一向一揆にて敵方の猛烈な反撃にあい、他の兄弟とともに討死しました。

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織田信長の次兄 織田秀俊(信時)~痴情のもつれにより殺害される~

通称:喜蔵、安房あわ

生年:不明

没年:弘治2年(1556)6月

死因:叔父 信次の家老・角田新五に恨まれ殺害される

信長の2番上の兄は織田秀俊ひでとし信時のぶとき)です。(父・信秀の次男)

江戸時代の『寛政重修諸家譜』には信秀の六男とありますが、谷口克広氏の『織田信長家臣人名辞典』から次男とします。

また、名前についても、『寛政重修諸家譜』には「信時」と記載がありますが、

谷口氏によれば弘治2年(1558)2月の雲興寺宛ての禁制に「織田安房守秀俊」の署名があることから「秀俊」が本名(諱)としています。

秀俊(信時)は弘治元年(1555)に守山城主となった人物です。

元の守山城主・信次(秀俊や信長の叔父)が出奔したことから、信長によって城主に据えられました。

進言したのは佐久間信盛で、信次の家老である角田新五坂井喜左衛門が受け入れたことで実現しました。

佐久間信盛

しかし、坂井喜左衛門の息子孫平次を信時が男色の相手にして重用したことで角田新五が不満を爆発させました。

城の塀・柵の修復工事を始め、途中で兵を引き入れて、信時に詰め腹を切らせてしまいます

つまり、痴情のもつれが原因で殺害されたのです。

『信長公記』では秀俊(信時)を下記のように評価してます。

織田三郎五郎殿(信広のこと)と申すは、信長公の御腹かはりの御舎兄なり。

其弟に安房守殿(秀俊のこと)と申候て、利口なる人あり

『信長公記』首巻より

優秀なため、信長との仲も良かったようです。

当時敵対していた、弾正忠家の家老・林秀貞がいる那古野城へ信長・秀俊(信時)と2人で向かっています。

目的は不明ですが、敵陣に2人で乗り込むような信頼関係があったと思われます。

また、『信長公記』に「信長の弟」ではなく「信広の弟」とわざわざ記載しているのは、信広・秀俊(信時)が同母だったことを示していると考えれます。

↓守山城址

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織田信長の長弟 織田信勝(信行)~唯一信長に殺害された弟~

通称:勘十郎、武蔵守

生年:不明

没年:永禄元年(1558)11月

死因:清州城で信長に暗殺される

信長の1番目の弟は織田信勝です。(父・信秀の四男)

信長に対抗した弟として有名な人物で、兄弟の中で唯一信長に殺害されました。

信長は信勝以外の兄弟とは良好な関係を築いています。

一般的には「信行」の名で知られていますが、信行と署名した古文書はありません。

母は信長と同じく土田御前です。

天文21年(1552)3月3日。

父・信秀が死去すると、信勝は末森城の城主となりました。

末森城付の柴田勝家らを中心に、信長から独立した勢力となり、信長付の筆頭家老・林秀貞にまで擁立された信勝は信長に対抗しました。

信勝の行動は以下の通りです。

  • 弘治元年(1555)6月26日 弟秀孝が射殺された際、守山城下を放火
  • 弘治2年(1556)8月24日 林秀貞・柴田勝家連合軍として信長に挑むも敗退(稲生の戦い)
    →林・柴田は蟄居
    →信勝は母・土田御前とともに信長に謝罪し、許される
  • 永禄元年(1558)3月 庄内川沿いに竜泉寺城を築城
    →信長直轄領の「篠木三郷」の横領を企て、再び対抗
  • 永禄元年(1558)11月2日 仮病を使った信長に清州城へ呼び寄せられ、暗殺される

信勝は優秀で、信長に対抗しうる勢力をもっていました。

熱田では、独自に安堵状を発給する権力もありました。

しかし、実際に謀反を起こしたところ、稲生の戦いで敗退。

実母・土田御前の助言もあり、この敗戦では信長も信勝の命を助けます。

ところが、信勝は再び対抗をはじめ、竜泉寺城を築城しました。

もとは信勝派だった柴田勝家が信長に接近し、信勝の謀反を告げたため、信長はついに信勝暗殺を企てました。

仮病を使い、清州城へ見舞いに呼び寄せ、殺害を決行。

これが信長による唯一の兄弟殺害であり、皮肉にも信勝の死により織田弾正忠家は一つとなりました。

↓竜泉寺城跡

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織田信長の次弟 織田秀孝~馬に乗っていたら誤って射殺された~

通称:喜六郎

生年:天文10年(1541)

没年:弘治元年(1555)6月26日

死因:叔父・織田信次の家臣に誤って射殺される

信長の2番目の弟は織田秀孝ひでたかです。(父・信秀の五男)

信長の兄弟の中では最初に亡くなった人物です。

秀孝は弘治元年(1555)6月26日に守山城北東の竜泉寺周辺を供も連れずに単騎で駆けていました。

ちょうど守山城主・信次が若者と川遊びをしていたため、無礼に思った洲賀才蔵という信次家臣が矢を放ち、秀孝に当たり死亡してしまいます。

信次は驚き、出奔。

あとを継いだのが兄の秀俊(信時)でした。

兄のうち信勝(信行)は怒り、守山城を攻めて城下を焼き払いました。

信長は一騎駆けした秀孝の過失を攻めて「仮に生きていても許さない!」と冷ややかな態度をとったと『信長公記』は伝えています。

↓竜泉寺

『信長公記』では秀孝の容姿を下記のように伝えています。

御歳の齢十五・六にして、御はだえは白粉のごとく、たんくわのくちびる柔和のすがた、容顔美麗人にすぐれて、いつくしき共中々たとへにも及び難き御方様なり

『信長公記』首巻

これは秀孝が死亡したときの記事で、15、16歳とあることから信長の弟であることは確実です。(信長22歳)

色白で赤いくちびるで柔和な顔をしていたという秀孝は、現代でも通じそうなイケメンの若者だったようです。

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織田信長の三弟 織田信包(長野信良)~長寿の弟 大坂の陣直前で死亡~

織田信包(長野信良)

通称:三十郎、上野介

生年:天文12年(1543)?

没年:慶長17年(1614)7月(享年72歳)

死因:喀血して急死

信長の3番目の弟は織田信包のぶかね(長野信良)です。(父・信秀の六男)

兄弟の中では長生きし、大坂の陣直前で突然死した人物です。

永禄11年(1568)2月、信長の北伊勢制圧後に「長野」の名跡を継ぎました。

長野藤定ふじさだの婿養子となり、「長野三十郎信良」と名乗ります。(のちに織田へ復姓)

その後の信包の行動は下記の通りです。

【信長の連枝衆(親族衆)として】

  • 永禄12年(1569)8月 伊勢国 大河内おかわち城攻めに参陣
  • 永禄12年(1569)10月 伊賀国 上野城の城主となる
  • ~元亀2年(1571)2月 伊勢国 安濃津城の城主となる 
  • 天正元年(1573)9月 浅井氏の小谷城落城時、お市と3人の女子を受け取る
  • 天正元年(1573)9月 長島攻めに参陣
  • 天正3年(1575)8月 越前一向一揆討伐に参陣
    →一揆の残党600名程を討ち取る
  • 天正5年(1577)2月 雑賀攻めに参陣
  • 天正6年(1578)4月 大坂攻め(本願寺攻め)に参陣
  • 天正6年(1578)5月 播磨攻め(別所長治の三木城攻め)に参陣
  • 天正6年(1578)7月 神吉かんき城攻めに参陣
    →南方面を担当
  • 天正6年(1578)11月 有岡城(荒木村重)攻めに参陣
  • 天正7年(1579)3~4月 摂津・播磨攻め(三木城・有岡城攻め)のため上洛
  • 天正9年(1581)1月15日 連枝衆として左義長に参加
  • 天正9年(1581)2月28日 京都での馬揃えで騎馬10騎を従えて行進
  • 天正9年(1581)9月 伊賀攻めに参陣
  • 天正10年(1582)1月15日 連枝衆として左義長さぎちょう(どんど焼き)に参加

【本能寺の変後】

  • 羽柴秀吉に属して、甥の信孝や柴田勝家と敵対
  • 天正11年(1583)伊勢で滝川一益と戦闘し、峰城を攻略
  • 天正13年(1585)7月11日 侍従に任じられる
    →「津侍従」と称す
  • 天正13年(1585)佐々攻めに参陣
  • 天正18年(1590)小田原攻めで韮山城攻めに参陣
  • 文禄元年(1592)名護屋城に在陣
  • 慶長5年(1600) 関ケ原の戦いで西軍につく
    →戦後、領地を安堵されているので、家康に通じていた可能性がある
  • 慶長19年(1614)大坂城内で突然喀血し、死亡(享年72歳)

信長が生きていた時代は、連枝衆の第3番目の席次として、常に信孝の上位におり、主要な戦いに参陣しています。

また、信長死後は上手く立ち回り、関ケ原の戦い後も領地安堵を受けました。

関ケ原の戦い後は、姪の淀殿やその子秀頼を補佐しましたが、突然喀血し、そのまま死亡してしまいます。

大坂城ではあまりにも突然の死だったため、暗殺の可能性もあると言われています。

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織田信長の四弟 織田信治~信長最大のピンチ志賀の陣で討死~

通称:九朗

生年:天文14年(1545)

没年:元亀元年(1570)9月20日(享年26歳)

死因:志賀の陣で宇佐山城を守り、討死

信長の4番目の弟は織田信治のぶはるです。(父・信秀の七男)

信治は尾張国の野府城主でした。(野府城は信長の妹・野府殿も居城していました)

↓野府城址

史料の初見は元亀元年(1570)6月です。

『浅井三代記』に横山城攻めに参陣したという記事があります。

元亀元年(1570)9月19日、浅井・朝倉連合軍3万に宇佐山城を攻められ、森可成や青地茂綱らとともに守ったが、翌20日に討死しました

織田信治を抱えて勇戦する森可成

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織田信長の五弟 織田信興~長島一向一揆での織田一族最初の被害者~

通称:彦七郎

生年:不明

没年:元亀元年(1570)11月21日

死因:長島一向一揆に居城・小木江城を急襲され自害

信長の5番目の弟は織田信興のぶおきです。(父・信秀の八男)

「信與」とも書き、「のぶとも」ともいいます。

「與」は「与(とも)」の旧字体です。

通称が彦七郎・・のため七男の可能性もあります。

信興は伊勢長島の抑えとして、伊勢国との国境である尾張国の小木江こきえ城を守っていました。

しかし、元亀元年(1570)11月。

信長が志賀の陣で手一杯になっていることを狙い、石山本願寺は長島の門徒に一揆を起こさせ、小木江城を攻めさせてました。

信興は数日耐えたものの、城門を突破され、11月21日に天守で自害をしました。

長島一向一揆との戦いでは多くの信長の兄弟が命を落としますが、その最初が信興でした。

↓小木江城

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織田信長の六弟 織田信照(中根信照)~愚鈍な人と称された弟~

通称:越中守、平右衛門。大橋和泉守定永。

生年:天文15年(1546)

没年:慶長15年(1610)10月18日(享年65歳)

死因:不明

信長の6番目の弟は織田信照です。(父・信秀の九男)

母が中根七郎左衛門康友の娘で、母方の容姿となり、中根姓を名乗り始めました。

信照の行動は以下の通りです。

  • 天正9年(1581)2月28日 京都での馬揃えで行進
  • 本能寺の変後、信長の次男・信雄に仕える
    →沓掛城二千貫の高禄を領す
  • 天正12年(1584)小牧長久手の戦いで尾張国 奥城を守る
    →同5月 羽柴秀吉に城を落とされて捕虜となる
  • 慶長15年(1610)10月18日 死亡(享年65歳)

史料にあまり登場せず、詳細の行動まではわかりませんが、天正9年の馬揃えで連枝衆として参加している(『信長公記』より)ので、他の兄弟と同じく信長の部将としての役割を果たしていたと思われます。

信長の死後は織田信雄に仕え、65歳になるまで長生きしました。

『尾州府志』には信照を以下のように評価しています。

天性魯鈍ノ人ナリ

『尾州府志』

魯鈍とは愚鈍と同意で、愚かで、頭の働きが鈍い・ことをさします。

真偽は不明ですが、たしかに大きな武功をあげた事実はありません。

武将としてはいまいちでも、信長の弟という立場や肩書を使って長生きしたことから世渡りは上手だったのかもしれません。

↓沓掛城址

↓奥城址

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織田信長の七弟 織田秀成(津田秀成)~長島一向一揆で討死~

通称:半左衛門

生年:不明

没年:天正2年(1574)9月29日

死因:長島一向一揆で討死

信長の7番目の弟は織田秀成ひでなりです。(父・信秀の十男)

信秀の八男や九男ともいわれています。

  • 天正2年(1574)7月13日 東から長島攻めへ出陣
  • 天正2年(1574)9月29日 長島一向一揆方の猛烈な反撃を受け、討死

秀成は信長の嫡男・織田信忠らとともに市江方面(現・愛知県愛西市)から長島攻めへ出陣しました。

最後は長島一向一揆にて敵方の猛烈な反撃にあい、他の兄弟とともに討死しました。

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織田信長の八弟 織田長益(織田有楽斎)~茶人として大成した弟~

織田長益(織田有楽斎)

通称:源五郎、出雲守、武蔵守

斎号:有楽斎

生年:天文16年(1547)

没年:元和7年(1622)12月13日

死因:寿命(京都で死去)

信長の8番目の弟は織田長益ながますです。(父・信秀の十一男)

長益は部将としてよりも茶人として周知されています。

利休七哲の一人「織田有楽斎うらくさいの名でご存知の方が多いと思います。

東京都の有楽ゆうらく町は、有楽斎の邸宅があったことに由来しています。

長益の行動は以下の通りです。

信長の連枝衆(親族衆)として】

  • 天正9年(1581)1月15日 連枝衆として左義長さぎちょう(どんど焼き)に参加
  • 天正9年(1581)2月28日 京都での馬揃えで行進
  • 天正10年(1582)1月15日 連枝衆として左義長さぎちょう(どんど焼き)に参加
  • 天正10年(1582)2月 武田攻めに参陣
  • 天正10年(1582)6月2日 本能寺の変で信忠に従って二条御所に籠るも家臣を欺いて脱出

【本能寺の変後】

  • 羽柴秀吉に仕える
  • 天正12年(1584)小牧長久手の戦いでは信雄に味方
    →1万3千貫の知行を信雄から受ける
  • 天正18年(1592)信雄の改易にともない、再び秀吉に仕える
  • 慶長5年(1600) 関ケ原の戦いで東軍につく
    →石田三成の家臣・蒲生喜内頼郷よりさとと他1人を討ち取る
  • 慶長20年(1615)4月 大坂夏の陣を前に大坂城を退去
  • 元和7年(1621)12月13日 京都東山にて死亡(享年75歳)

長益は信長が生きているときも武田攻めへ参戦するなど、連枝衆として戦っています。

ただ、本能寺の変時は信忠とともに戦うどころか家臣を欺いて逃げるという行動にでました。

長益の逃亡自体は構いませんが、織田家の将来を思い、当主・信忠を逃がすべきでした。

本能寺の変後は羽柴秀吉に即仕え、織田家の主導権争いには精力的に参加しなかったようです。

武将として疑問符のつく長益ですが、関ケ原の戦いでは2人の首をあげるという武功があります。

関ケ原の戦い後は、兄の信包とともに姪の淀殿やその子秀頼を補佐しましたが、家康に内通し、大坂城の内部情報を通報していました。

しかし、大坂夏の陣直前に大坂城を退去し、最後は京都東山で迎えました。

家系図

織田信長の末弟 織田長利(津田長利)~本能寺の変で討死した弟~

通称:又十郎

生年:不明

没年:天正10年(1582)6月

死因:本能寺の変で甥・信忠とともに二条御所で討死

信長の最後の弟は織田長利ながとしです。(父・信秀の十二男)

本能寺の変で信長の兄弟の中で唯一死亡した人物です。

長利の行動は以下の通りです。

  • 元亀3年(1572)12月6日 信長に60貫の地を没収される
  • 天正2年(1574)7月13日 東から長島攻めへ出陣
  • 天正9年(1581)2月28日 京都での馬揃えで行進
  • 天正10年(1582)6月2日 本能寺の変の際、二条御所にて信忠と討死

元亀3年に何をしでかしたのか不明ですが、領地を没収されています。

しかし、長島攻めへ出陣するなど活躍の場が与えられ、京都での馬揃えでも連枝衆として参加しています。

本能寺の変では、長益とは違い、二条御所で戦って討死しました。

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織田信長の姉妹① 神保氏張室のち稲葉貞通室

名前:不明

生年:不明

没年:慶長8年(1603)9月

嫁ぎ先①:越中国 守山城主・神保氏張じんぽううじはる

結婚目的①:他国との政略結婚

嫁ぎ先②:美濃国・稲葉貞通さだみち

結婚目的②:家臣との関係強化

織田信秀の長女で信長の姉もしくは妹。

彼女は最初、他国との政略結婚として神保氏張に嫁ぎました。

神保氏晴(1528~1592)は越中守護代・神保氏の支流で、越中国 守山城の城主でした。

『高岡市史』では、彼女を妹としており、信長が氏張に嫁がせたのを天正9年(1581)と記載していますが、結婚の経緯は不明です。

信長の死後、羽柴秀吉が美濃国の稲葉貞通(一鉄の子)に再嫁させました。

これは家臣との関係強化のための政略結婚です。

貞通との間には3男2女をもうけ、慶長8年(1603)9月に亡くなりました。

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織田信長の姉妹② 犬山殿、織田信清室

名前:不明 / 犬山殿

生年:不明

没年:不明

嫁ぎ先尾張国 犬山城主・織田信清

結婚目的:織田一族との関係強化

織田信秀の2女で信長の姉もしくは妹。

彼女は信長のいとこである、犬山城の織田信清に嫁いだため、犬山殿と呼ばれます。

犬山城の織田氏は岩倉の守護代織田伊勢守家に属しますが、次第に独立した立場となっていました。

そのため、犬山殿が信清に嫁ぎ、弾正忠家との連携を強化しました。

独立した犬山城の織田氏との結婚のため、他国との政略結婚の意味合いの方が強いかもしれません。

信清は当初は信長に協力しますが、次第に敵対しはじめました。

桶狭間の戦い後の永禄7年(1564)8月、犬山城を信長に落とされ、甲斐国 武田氏へ身を寄せたといわれます。

犬山殿は信清と離別させられ、信長の庇護を受けるようになります。

本能寺の変後は、信長の次男・信雄から化粧料をもらっていることが記録されていますが、その後の消息については不明です。

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織田信長の姉妹③ 斎藤秀龍室

名前:不明

生年:不明

没年:不明

嫁ぎ先美濃国 小島おじま城主・斎藤秀龍

結婚目的:他国との政略結婚

織田信秀の3女で信長の姉もしくは妹。

美濃国では斎藤秀龍とは斎藤道三のことを指しますが、

秀龍は斎藤兵衛尉ひょうえのじょう秀龍といい、道三は兵衛尉を名乗ったことはなく、人物の詳細が不明です。

もし、道三のことだとすると、父・信秀時代に決まった結婚で政略結婚というよりは人質の意味合いの方が強かったでしょう。

↓小島城址

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織田信長の姉妹④ 遠山直廉室

名前:不明

生年:不明

没年:不明

嫁ぎ先美濃国 苗木城主・遠山直廉(苗木勘太郎とも)

結婚目的:他国との政略結婚

織田信秀の4女で信長の姉もしくは妹。

遠山直廉は苗木勘太郎ともいい、娘は信長の養女となり永禄8年(1565)11月、武田勝頼に嫁ぎました

娘は龍勝院と呼ばれ、甲斐武田氏の最後の当主・武田信勝の実母となり、織田氏と武田氏との友好関係に貢献しました。

左:遠山直廉室の娘・龍勝院 / 右:遠山直廉室の孫・武田信勝

↓苗木城址

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織田信長の姉妹⑤ お市の方、浅井長政室のち柴田勝家室

お市の方

名前:お市の方

生年:天文16年(1547)

没年:天正11年(1583)4月24日(享年37歳)

嫁ぎ先①:近江国 小谷城主・浅井長政

結婚目的①:他国との政略結婚

嫁ぎ先②:越前国・北ノ庄・柴田勝家

結婚目的②:政略結婚

織田信秀の5女で信長の妹。

信長の兄弟姉妹の中で最も有名です。

兄の信長や豊臣秀吉に翻弄され、近江国 小谷城の浅井長政、後に柴田勝家と再婚したた戦国一の美女です。

永禄10年(1567)、21歳になったお市の方は、信長と同盟を結んだ2歳年上の浅井長政と結婚しました。

お市の方が輿入れした浅井長政

2人の間はとても円満だったと伝わり、6年間に3女をもうけました。

この3人の娘が有名な「浅井三姉妹」です。

【長政とお市の子】

  • 茶々(のちの淀殿/豊臣秀吉室)
  • 初(後の京極高次室)
  • 江(後の佐治為次室、豊臣秀勝室、徳川秀忠室)

天正元年(1573)9月1日、兄信長により小谷城が落城すると、夫・長政は自害します。

お市と3人の娘は落ち延びました。

その後は、信長の庇護を受け、伊勢国の兄・信包に預けられたといいます。

近年では守山城主で叔父の信次に預けられたという説もあります。

↓小谷城址


9年後の天正10年(1582)6月2日、36歳のお市の方に転機が訪れました。

本能寺の変で、兄信長が明智光秀に殺害されてしまったのです。

そして、その光秀が豊臣秀吉に倒され、信長の後継者争いが激化します。

そんな中、天正10年(1582)8月に甥・信孝のススメもあり、秀吉のライバルで61歳になる柴田勝家のもとに再嫁しました。

お市の方が再嫁した柴田勝家

しかし、翌天正11年(1583)4月に賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗北し、北ノ庄に逃げ帰りました。

秀吉の大軍に包囲された勝家は死を覚悟し、お市の方と茶々たち3人の娘を城から出るように促しましたが、お市の方は拒否します。

17歳になった茶々も一緒に死ぬように訴えましたが、許されず3人の娘は落ち延びました。

そして、天正11年(1583)4月24日、夫・勝家に胸を刺し貫かれ、享年37歳の生涯を閉じました。

2人の辞世の句は下記の通りです。

  • さらぬだに打ぬる程も夏の夜の 夢路をさそう郭公ほととぎすかな お市
  • 夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ山郭公 勝家

↓北ノ庄城跡

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織田信長の姉妹⑥小田井殿、織田信直室

名前:不明 / 小田井殿

生年:天文21年(1552)

没年:天正元年(1573)/ 享年21歳

嫁ぎ先尾張国 小田井城主・織田信直

結婚目的:織田一族との関係強化

織田信秀の6女で信長の妹。

現在の愛知県清須市西枇杷島町小田井にあった小田井城に嫁いだことから小田井殿と呼ばれています。

清州三奉行の一つ、「織田藤左衛門家」の小田井城主・織田信直に嫁ぎました。

小田井城は清州城の南東で庄内川沿いに位置し、家柄と共に重要だったと思われます。

信直との間に2男1女をもうけましたが、21歳という若さで亡くなりました。

伝織田信直

夫の織田信直は一門衆として重んじられ、活躍しました。

しかし、天正2年(1574)9月29日に長島一向一揆との戦いで一揆勢の反撃にあい、討死しました。

嫡男の信氏も重用され、連枝衆として天正9年(1581)2月の京都御馬揃えに参加しています。

↓小田井城址

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織田信長の姉妹⑦ 小幡殿、織田信成室

名前:不明 / 小幡殿

生年:不明

没年:不明

嫁ぎ先尾張国 小幡城主・織田信成

結婚目的:織田一族との関係強化

織田信秀の7女で信長の妹。

現在の愛知県名古屋市守山区西城にあった小幡城に嫁いだことから小幡殿と呼ばれています。

信長を助け続けた、守山城主・織田信光の嫡男である小幡城主・織田信成に嫁ぎました。

信長の従兄弟である信成との関係強化のための政略結婚だったと考えられます。

信成との間に1男(織田正信)をもうけています。

夫・信成は一門衆として重用されますが、

天正2年(1574)9月29日に長島一向一揆との戦いで一揆勢の反撃にあい、討死しました。

↓小幡城址

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織田信長の姉妹⑧ お犬の方、佐治信方室のち細川信良室

お犬の方

名前:お犬の方

生年:不明

没年:天正10年(1582)

嫁ぎ先①:尾張国 大野城主・佐治信方(為興とも)

結婚目的①:尾張有力者との政略結婚

嫁ぎ先②:細川京兆家(管領家)・山城国 槙島城主・細川昭元

結婚目的②:政略結婚

織田信秀の8女で信長の妹。

名前が判明しており、「お犬の方」といいます。

肖像画が残っていますが、美人で有名な女性で、

知多半島の大部分を治めていた豪族、大野城主・佐治信方に嫁ぎました。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの後頃から従うようになった佐治信方に対して、信長は妹との政略結婚を進めたのです。

伊勢湾の海上交通を握る佐治水軍をもっているため、信長にとって非常に重要なパートナーでした。

お犬の方は信方との間に2男をもうけています

嫡男の佐治一成は、お市の方の娘で浅井三姉妹として有名な「江」の最初の結婚相手として知られている人物です。

夫・佐治信方は、お犬の方を娶ることで一門衆並に重用されますが、

天正2年(1574)9月29日に長島一向一揆との戦いで一揆勢の反撃にあい、討死しました。(享年22歳)

↓大野城


夫・佐治信方の死後は実家の兄・信長のもとに戻りました。

当時は岐阜城が居城です。

そこでは、姪の茶々(浅井三姉妹の長女)の後見をつとめていましたが、結婚の話が持ち上がりました。

未亡人となった3年後の天正5年(1577)。

細川京兆家(管領家)・山城国 槙島城主・細川昭元のもとに再嫁しました。

細川京兆家はすでに力を失っておりましたが、時期的に足利将軍家との関係改善のため、政略結婚となったと思われます。

昭元との間には1男2女をもうけました

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織田信長の姉妹⑨ 津田出雲守室

名前:不明

生年:不明

没年:不明

嫁ぎ先津田出雲守

結婚目的:織田一族との関係強化

織田信秀の9女で信長の妹。

本人も夫とされる津田出雲守も詳細は不明です。

ただ、津田姓のため、織田一族と思われ、関係強化のための結婚だったと思われます。

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織田信長の姉妹⑩~飯尾尚清室~

名前:不明

生年:不明

没年:不明

嫁ぎ先尾張国 奥田城主・飯尾尚清ひさきよ

結婚目的:織田一族との関係強化

織田信秀の10女で信長の妹。

本人については詳細が不明です。

夫・飯尾尚清は織田一族で、信秀の従兄弟にあたる人物です。(父・飯尾定宗が信秀の叔父)

信長の妹を娶った尚清も信長に重用されます。

信長直属軍の馬廻り衆として活躍し、前田利家らとともに初期メンバーとして、エリート集団の赤母衣衆に選抜されました。

長島攻めに参陣するなどの活躍もありますが、吏僚としての活躍が目立ちます。

信長の死後は信長の次男・信雄→羽柴秀吉と主君を変え、生き残りました。

赤母衣のイメージ

↓奥田城址

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織田信長の姉妹⑪~野夫殿、津田元嘉室~

名前:不明

生年:不明

没年:不明

嫁ぎ先尾張国 野府城主・津田九朗二郎元嘉もとよし

結婚目的:織田一族との関係強化

織田信秀の11女で信長の妹。

江戸時代の『寛政重修諸家譜』には「乃不九郎某に嫁す」とあり、津田九朗二郎元嘉のことと思われます。

現在の愛知県一宮市にあった野府城に嫁いだことから野夫殿と呼ばれています。(野府城は信長四弟・信治も居城していました)

夫・津田元嘉は天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で二条御所で戦い、信長嫡男・信忠とともに討死しました。

津田姓で、織田一族のため、関係強化の結婚でした。

↓野府城址

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織田信長の姉妹⑫~小林殿、牧長清室~

名前:不明

法名:信徳院

生年:不明

没年:天正15年(1587)8月15日

嫁ぎ先尾張国 小林城主・牧長清

結婚目的:織田一族との関係強化

織田信秀の12女で信長の妹。

現在の愛知県名古屋市中区大須にあった小林城に嫁いだことから小林殿と呼ばれています。

嫁ぎ先の牧氏は尾張守護・斯波氏の支流という名門で、長清自身は斯波義銀(最後の尾張守護)の従兄弟です。

長清の母は信長の叔母であるため、信長の妹が嫁いだことから、牧氏とはさらに強い絆で結ばれました。

牧氏が重視されたのは、その血筋の他、小林城の位置も関係していると思われます。

小林城は名古屋城(当時は那古野城)の南に位置し、熱田や古渡城と名古屋城をつなぐ重要な城でした。

小林殿は長清が死去したあとは信長の庇護を受け、信徳院と称します。

本能寺の変後は、信長次男・信雄の庇護をうけ、化粧料を与えられました。

↓小林城址

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まとめ

以上、織田信長の兄弟姉妹について紹介しました。

信長には2人の兄と9人の弟、12人の姉妹がいました。

勢力争いをした弟の信勝は唯一信長が殺害しまいたが、それ以外の兄弟とは良好な関係を結んでいます。

兄弟は連枝衆(親族衆)として信長の天下統一を支え、熾烈な戦いである長島攻めで多く命を落としました。

姉妹についてはお市の方が有名ですが、例にもれず政略結婚に利用され、嫁ぎ先の家・人物は信長に重用されました。

豊臣秀吉の台頭から実力主義のイメージや弟・信勝の戦いから兄弟とは争い、親族でも容赦ないイメージがついている織田信長ですが、実際は血縁を大事にしていたのです。

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