田沼意次が老中として権勢を誇っていた天明4年(1784)。
田沼意次の嫡男で若年寄だった田沼意知が佐野善左衛門政言に江戸城内で斬りつけられるという衝撃的な事件が発生しました。
この記事では後に「世直し大明神」ともてはやされた佐野がなぜ、どこで事件を起こしたのか解説します。
若年寄・田沼意知暗殺事件の概要
天明4年(1784)3月24日の午中刻頃(午後12時頃)。
場所は江戸城内。
新番士の佐野善左衛門政言が「覚えがあるだろう!」と3度叫んで、上司にあたる若年寄の田沼意知を脇差で肩先を斬りつけました。
田沼意知は倒れてしまったところを、今度は股を突き刺されてしまいます。
一方、重傷になりならも逃げる田沼意知を見失った佐野政言は、大目付たちに取り押さえられてしまいました。
結局、田沼意知はこの傷が原因で4月2日に死亡。
佐野政言は、乱心したということで4月3日に切腹を申し付けられました。
この事件は、佐野政言の田沼意知に対する私怨のため起こったとされています。
佐野善左衛門政言のプロフィール
暗殺事件の加害者である佐野善左衛門政言は、
17歳の時に家督を相続し、将軍の身辺警護をする新番士として活躍した旗本です。
政言が勤めた新番士は、若年寄支配の役職です。
プロフィールを以下に簡単にまとめました。
生年:宝暦7年(1757)
没年:天明4年(1784)4月3日(享年28歳)
職歴:安永2年(1773)家督相続 → 安永6年(1777)大番士 → 安永7年(1778)新番士
田沼意知のプロフィール
暗殺事件の被害者である田沼意知は、
老中として権勢を誇っていた田沼意次の嫡男として誕生しました。
天明元年(1781)12月15日に奏者番に任じられ、天明3年(1782)11月1日には若年寄に昇進します。
つまり、天明3年に意知は政言の上司となりました。
ただし、江戸幕府の要職を父子で勤めたため、世間からは強い反発もあったようです。
生年:寛延2年(1749)
没年:天明4年(1784)4月2日(享年36歳)
官位官職:従5位下/山城守
職歴:天明元年(1781)奏者番 → 天明3年(1782)若年寄
佐野善左衛門政言は田沼意知をどこで襲ったか?
佐野善左衛門政言が若年寄・田沼意知を襲った場所は江戸城内の「桔梗間」でした。
意知が同僚の若年寄たちとともに、執務室である御用部屋から退去しようとしたときのことでした。
桔梗の間に控えていた政言に襲われました。
「覚えがあるだろう!」と3度叫びながら、肩先を長さ3寸(約9cm)、深さ7分(約2cm)の傷を負った意知はそのまま桔梗の間へ逃げます。
しかし、意知を追い詰めた政言はさらに意知の股を突き刺しました。
股のケガは3寸5分(10.5cm)の深さで骨まで届き、意知は廊下へ逃げるも昏倒します。
一方、政言は意知の行方を見失い、「中之間」方へ向かったところを大目付や目付たちに取り押さえられました。
佐野善左衛門政言は田沼意知をなぜ暗殺したか?
事件後に佐野政言自身が取り調べで語った暗殺しようとした理由は5つありました。
政言が意知を暗殺した理由①佐野家の家系図を返してくれない
田沼氏は鎌倉時代に下野国安蘇佐野庄に土着した佐野氏の分家が家祖とされています。
そこで、天明元年(1781)頃に、意知が佐野家の家系図をみたいと連絡があったそうです。
最初は佐野家親族の方へ依頼があったので、家系図を貸したところ、
意知から真の系図ではないから、善左衛門家(政言の家系)の方の家系図を貸してほしいと回答がありました。
武士は「家」を守ることが本分のため、家系図は非常に大切です。
政言は渋々承知して貸しました。
しかし、その後催促を繰り返しても全く返してくれなかったため、恨みが増大していったのです。
政言が意知を暗殺した理由②佐野家の領地を横領された
佐野家の領地は上州(上野国)甘楽郡西岡村、高井村にありました。
表記は400石ですが、実収入は2,000石程あったようです。
その領地に「佐野大明神」という神社がありましたが、意知が領地に侵入。
「田沼大明神」と名前を改めて横領してしまいました。
政言が意知を暗殺した理由③佐野家の「七曜の旗」を奪われた
佐野家には「七曜の旗」という旗があったそうです。
意知から見たいとの希望を受け、貸したましたが、七曜は田沼家の家紋という理由でそのまま奪われてしまいました。
確かに田沼氏の家紋は七曜紋です。
元々佐野氏の分家なので同じ紋の旗を佐野善左衛門家で保有していたと考えられます。
政言が意知を暗殺した理由④出世の約束で賄賂を贈り続けたのに反故にされた
佐野政言は近年、収入が少ないので、出世したいと考えました。
そこで、意知へ頼んで役職が空いたら声をかけてもらえるように頼みます。
何度もお願いして、そのたびに多くのお金を贈りました。
天明2年(1782)~天明4年(1784)にかけて総額620両にのぼったと証言しています。
現代金額に正確に換算するの難しく、基準により幅がありますが、いずれにしても莫大な金額です。
しかし、意知は出世させてやると口では言うものの、政言の出世は実現しませんでした。
政言にとってはウソをつかれてお金だけとられたため、恨みは大きく膨らみました。
政言が意知を暗殺した理由⑤鷹狩での手柄を他者の手柄とされた
天明3年(1783)12月。
新番士であった政言は10代将軍家治の鷹狩に御供することになりました。
そして鴈を見事射止めます。
しかし、意知が「これは政言が仕留めたのではない!」と進言しました。
結局、他の者の手柄ということになり、意知への恨みを深めました。
田沼意知暗殺後の佐野善左衛門政言の評価
江戸城で刃傷事件を起こすという暴挙に出た佐野政言ですが、世間では彼をほめたたえました。
この事件直後に高騰していた米の価格が下落しました。
偶然ですが、人々にとってはありがたく、政言は「世直し大明神」ともてはやされました。
その影響もあったのか、政言の墓所である徳本寺の参詣者が爆発的に増加します。
あまりに多いので寺社奉行では墓所に縁がない人の参詣は禁止とするほどでした。
それでも賽銭が毎日15貫文(≒225,000円~1,125,000円)にのぼるほど人が集まったようです。
また、政言が意知を襲った際に利用していた脇差「粟田口忠綱」の相場が上昇しました。
このように佐野政言は切腹の処分となりましたが、世間では非常に人気があったのです。
まとめ
以上、佐野善左衛門政言が田沼意知を暗殺した事件を解説しました。
上司にあたる意知を襲うに至った理由は、長年にわたり多くの恨みがつのったからで、
江戸城の「桔梗間」で待ち伏せて犯行におよんだのです。
事件の結果、政言は乱心したとされて切腹を命じられましたが、
世間では政言を非常に評価し。「世直し大明神」として人気が高まりました。
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