田沼意次が老中として権勢を誇っていた天明4年(1784)。
田沼意次の嫡男で若年寄だった田沼意知が旗本の佐野善左衛門政言に白昼堂々江戸城内で斬りつけられました。
この事件をきっかけに意知が死亡し、田沼時代に陰りが見え始めました。
佐野政言の動機は何だったのか?乱心か?私怨か?クーデターか?
本人の証言や当時の記録をもとに解説します。

佐野善左衛門政言をモデルとして描いた作品
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加害者の佐野善左衛門政言のプロフィール
暗殺事件の加害者である佐野善左衛門政言は、
17歳の時に家督を相続し、将軍の身辺警護をする新番士として活躍した旗本です。
政言が勤めた新番士は、若年寄支配の役職です。
プロフィールを以下に簡単にまとめました。
生年:宝暦7年(1757)
没年:天明4年(1784)4月3日(享年28歳)
職歴:安永2年(1773)家督相続 → 安永6年(1777)大番士 → 安永7年(1778)新番士

被害者の田沼意知のプロフィール
暗殺事件の被害者である田沼意知は、
老中として権勢を誇っていた田沼意次の嫡男として誕生しました。
天明元年(1781)12月15日に奏者番に任じられ、天明3年(1782)11月1日には若年寄に昇進します。
つまり、天明3年に意知は政言の上司となりました。
ただし、江戸幕府の要職を父子で勤めたため、世間からは強い反発もあったようです。
生年:寛延2年(1749)
没年:天明4年(1784)4月2日(享年36歳)
官位官職:従5位下/山城守
職歴:天明元年(1781)奏者番 → 天明3年(1782)若年寄

若年寄・田沼意知暗殺事件の概要~江戸城のどこで襲われたか?~

天明4年(1784年)3月24日の午中刻頃(午後12時頃)の江戸城。
警護のため、「桔梗之間」に控えていた佐野政言が
「覚えがあろう!!!」と3度叫んで、上司にあたる若年寄の田沼意知を脇差で肩先を斬りつけました。
意知が同僚の若年寄たちとともに、執務室である御用部屋から退去し、中之間へ出ようとしたときのことでした。

長さ3寸(約9cm)、深さ7分(約2cm)の傷を負った意知は「桔梗之間」に意知は倒れ込み、
続けて股を突き刺されてしまいます。
股のケガは3寸5分(10.5cm)の深さで骨まで届き、意知は廊下へ逃げるも昏倒しました。
一方、政言は意知の行方を見失い、「中之間」方へ向かったところを大目付や目付たちに取り押さえられました。
意知は即刻医者の薬をつけて、駕籠に乗って退出したものの、この傷が原因で4月2日に死亡。
政言は、乱心を理由に4月3日に切腹を申し付けられました。
佐野善左衛門政言が田沼意知を暗殺した理由~政言の私怨~
事件後に佐野政言自身が取り調べで語った暗殺しようとした理由は5つありました。
政言が意知を暗殺した理由①佐野家の家系図を返してくれない

田沼氏は鎌倉時代に下野国安蘇佐野庄(現在の栃木県佐野市あたり)に土着した佐野氏の分家が家祖とされています。
そこで、天明元年(1781)頃に、意知が佐野家の家系図をみたいと連絡があったそうです。
最初は佐野家親族の方へ依頼があったので、家系図を貸したところ、
意知から真の系図ではないから、善左衛門家(政言の家系)の方の家系図を貸してほしいと回答がありました。
武士は「家」を守ることが本分のため、家系図は非常に大切です。
政言は渋々承知して貸しました。
しかし、その後催促を繰り返しても全く返してくれなかったため、恨みが増大していったのです。
政言が意知を暗殺した理由②佐野家の領地を横領された

佐野家の領地は上州(上野国)甘楽郡西岡村、高井村(現在の群馬県高崎市あたり)にありました。
表記は400石ですが、実収入は2,000石程あったようです。
その領地に「佐野大明神」という神社がありましたが、意知が領地に侵入。
「田沼大明神」と名前を改めて横領してしまいました。
政言が意知を暗殺した理由③佐野家の「七曜の旗」を奪われた

佐野家には「七曜の旗」という旗があったそうです。
意知から見たいとの希望を受け、貸したましたが、七曜は田沼家の家紋という理由でそのまま奪われてしまいました。
確かに田沼氏の家紋は七曜紋です。
元々佐野氏の分家なので同じ紋の旗を佐野善左衛門家で保有していたと考えられます。
政言が意知を暗殺した理由④出世の約束で賄賂を贈り続けたのに反故にされた
佐野政言は近年、収入が少ないので、出世したいと考えました。
そこで、意知へ頼んで役職が空いたら声をかけてもらえるように頼みます。
何度もお願いして、そのたびに多くのお金を贈りました。
天明2年(1782)~天明4年(1784)にかけて総額620両にのぼったと証言しています。
現代金額に正確に換算するの難しく、基準により幅がありますが、いずれにしても莫大な金額です。
しかし、意知は出世させてやると口では言うものの、政言の出世は実現しませんでした。
政言にとってはウソをつかれてお金だけとられたため、恨みは大きく膨らみました。
政言が意知を暗殺した理由⑤鷹狩での手柄を他者の手柄とされた

天明3年(1783)12月。
新番士であった政言は10代将軍家治の鷹狩に御供することになりました。
そして鴈を見事射止めます。
しかし、意知が「これは政言が仕留めたのではない!」と進言しました。
結局、他の者の手柄ということになり、意知への恨みを深めました。
佐野善左衛門政言が田沼意知を暗殺した理由~反田沼派のクーデター~
政言本人は私怨のため、事に及んだと証言していますが、
実は、松平定信をはじめ反田沼派のクーデターとも言われています。
この頃日本に来ていたオランダの長崎商館長チチングがその著作「日本風俗図詩」で記録しています。
つまり、開国を含めた急激な商業政策を実行する田沼親子の改革を阻止するため、
保守派である幕府高官が佐野政言を焚きつけて事件を起こしたというのです。
田沼意次は家柄が低く、江戸時代の基本方針である家柄重視の身分制では異例な出世をした人物でもあります。
「このままでは武士が支配する世が崩壊し、自身の出世が危ぶまれる」と保守派が危機感を抱いたのも無理はありません。
そして、この幕府高官の一人が松平定信と考えられます。

定信は「刺し殺してやろう」と思って懐に刀を忍ばして出かけたことが何度もあったと自身で証言しているほど意次を恨んでいました。
事実、定信政権に移行すると、意次の政策はことごとく中止されています。
佐野政言の遺書に書かれた辞世の句にもクーデターだったということを感じさせます。
他でもない国の友よ、戦いを捨ててしまったこの身は潔く清らかです というような意味です。
この「たたかひ」が意知殺害事件を指すならまさにクーデターということになります。
政言が意知に対する私怨があったことは事実で、
それを上手く利用されて、殺害の事件の背中を押したのが定信たち幕府高官だったのでしょう。
田沼意知暗殺後の佐野善左衛門政言の評価
江戸城で刃傷事件を起こすという暴挙に出た佐野政言ですが、世間では彼をほめたたえました。
この事件直後に高騰していた米の価格が下落しました。
偶然ですが、人々にとってはありがたく、政言は「世直し大明神」ともてはやされました。
その影響もあったのか、政言の墓所である徳本寺の参詣者が爆発的に増加します。
あまりに多いので寺社奉行では墓所に縁がない人の参詣は禁止とするほどでした。
それでも賽銭が毎日15貫文(≒225,000円~1,125,000円)にのぼるほど人が集まったようです。
また、政言が意知を襲った際に利用していた脇差「粟田口忠綱」の相場が上昇しました。
このように佐野政言は切腹の処分となりましたが、世間では非常に人気があったのです。
まとめ
以上、佐野善左衛門政言が田沼意知を暗殺した事件を解説しました。
この事件が起きた理由は、長年にわたり募っていた政言の意知に対する恨みを
松平政信をはじめとした反田沼派が利用したためでした。
そして政言は、江戸城の「桔梗間」で待ち伏せて犯行におよんだのです。
事件の結果、政言は乱心したとされて切腹を命じられましたが、
世間では政言を非常に評価し。「世直し大明神」として人気が高まりました。
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