天文21年(1552)8月に萱津の戦いで家督相続後の初勝利をおさめた信長は、尾張国内に実力をしめしました。
しかし、天文23年(1554)1月。
今度は国外からの大物、今川義元が尾張に進出し、貴重な味方である知多の緒川城主・水野信元を窮地に陥れます。
信長は義父・斎藤道三へ援軍を頼み、信元の救出のため「村木砦の戦い」に挑みました。
信長が初めて鉄砲を利用し、勝利したこの戦いについて解説します。
村木砦の戦いはいつ起こったか?
- 天文23年(1554)1月24日
- 辰の刻(午前8時)~申の刻(午後5時)
- 信長21歳のこと
村木砦の戦いが起こったのは、萱津の戦いでの初勝利後の5か月後。
天文23年(1554)1月24日です。
信長が21歳、家督相続から約2年が経とうとしたときのことです。
村木砦の戦いが勃発した背景
村木砦の戦い時の勢力図
村木砦の戦いが起きた時、織田信長は尾張国内外で多くの敵に囲まれてました。
【尾張国内の敵】
清州城を居城とする又代・坂井大善(守護代・織田大和守家の家宰)
※又代:又守護代の略。守護代の家臣で、在地で政務を取り仕切る
【尾張国外の敵】
遠江・駿河・三河の3か国を領有する今川義元
坂井大善は又代として守護・守護代をしのぐ力をもってました。
実権をにぎり、信長に対抗していた尾張国内の大きな勢力です。
天文21年(1552)8月の萱津の戦いで信長に敗北したことで力を落としましたが、まだまだ油断のならない相手です。
より大きな対抗勢力が遠江・駿河・三河の3か国を領有し、「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元でした。
義元は尾張の隣国の三河をおさえ、虎視眈々と進出の機会を狙っていました。
一方、味方の主だった人物は以下です。
【尾張国内の味方】
- 守山城主・織田信光(信長の叔父)
- 緒川城主・水野信元(徳川家康の叔父)
【尾張国外の味方】
美濃国を領有する斎藤道三(信長の義父)
守山城主の織田信光は萱津の戦いでも信長に味方をしたパートナーともいえる人物です。
そして、最も重要な味方が、緒川城を居城とする水野信元でした。
水野信元は織田・今川両勢力の接点(尾張と三河の国境付近)に位置しており、10年間、織田方を貫いたとても貴重な味方です。
仮に、水野信元の緒川城が今川方になれば、知多エリアは一気に今川の勢力下におかれることになることでしょう。
また、国外では美濃の斎藤道三が信長の味方として存在していました。
天文17年(1547)、信長15歳のときに道三の娘である濃姫と婚姻が成立しており、同盟者として支援をしていたのです。
今川氏の尾張進出のターゲットは信長の貴重な味方である緒川城主・水野信元
天文23年(1553)1月。
この混沌とした状況に今川義元が尾張進出をにらみ、水野信元をターゲットにします。
先述した通り、水野信元の緒川城は織田・今川の国境に位置し、両勢力にとって非常に重要でした。
今川義元は知立の重原城を攻め、つづいて緒川城の北に村木砦を新たに築きました。
この今川義元の動きに対して、水野信元を救うべく信長が出陣することで、村木砦の戦いが勃発します。
村木砦の戦いはどこで起こったか?
村木砦の戦いは現在の愛知県知多郡東浦町森岡取手30 で起こりました。
信長が救出すべき水野信元の居城・緒川城の攻略拠点として今川義元が築いた村木砦が戦いの舞台です。
村木砦は緒川城から北へ約2.5㎞に位置していました。
当時は海岸沿いに築城された堅固な城でした。
村木砦の戦いは誰との戦いか?兵力は?
- 信長方:織田信長・織田信光・水野信元連合軍 1,300人
VS
今川方:松平義春(村木砦の城将)300人 - 信長の居城・那古野城の留守に同盟者・斎藤道三が1,000人を援軍
村木砦の戦いでは、信長は連合軍で戦いに挑みました。
連携した人物は、萱津の戦い同様、守山城主である叔父・織田信光と、
救出先である緒川城主・水野信元です。
対するは、松平義春は東条松平家の祖で徳川家康の親戚にあたります。(家康は安城松平家の出身)
また、斎藤道三は信長に援軍1,000人を送っていました。
村木砦の戦いの戦闘は?結果は初めて鉄砲を使用した織田信長の勝利
1月18日 義父・斎藤道三の加勢
天文23年(1554)1月、今川義元の村木砦築城に対して、信長は出陣を決意します。
しかし、信長が那古野城を留守にしている間に、清州城から坂井大善が攻めてくる可能性が非常に高く、容易に出陣できませんでした。
そこで、義父である斎藤道三を頼ることにしたのです。
城番の軍勢の派遣依頼をだし、道三は了承しました。
天文23年(1554)1月18日。
安藤守就を大将として1,000人の援軍を派遣し、2日後には尾張に到着して信長と会っています。
清州城への備えを万全にした信長は翌日の21日に熱田へ向けて出陣しました。
1月22日 熱田より強風の中の渡海
熱田に宿泊した信長は翌日の22日に海を渡って村木砦へ向かう予定でした。
しかし、この日は天気が大荒れで船頭たちが渡海ができないと反対するほどの強風だったといいます。
それでも信長は強引に出航し、20里(約78㎞)を1時間という驚異的なスピードで渡り切りました。
緒川城に到着した信長は、水野信元に面会して状況の詳細をヒアリングし、作戦を練り、翌日の出撃に備えました。
ちなみに、熱田から渡海したのには理由があります。
村木砦へ向かう陸路には鳴海城や大高城など今川勢力に抑えられていたため、直線距離で向かうことができなかったためです。
天文23年時点ではそれだけ今川勢力が尾張国に食い込んでいたことを示しています。
1月24日 村木砦の戦い 開戦
1月24日、信長は夜明けとともに出陣しました。
軍勢を3つに分けて、以下の通りの布陣としました。
- 信長軍500人:南側の大堀担当。もっとも攻めにくい
- 信光軍300人:西側の搦手(裏口)担当。
- 水野信元軍500人:東側の大手(表口)担当。
村木砦の北は天然の要害だったため、今川軍も守備兵を配置しておらず、信長も兵を充てていません。
信長の担当した南側は大きな空堀を甕の形に掘り下げた、堅固な場所で最も攻めにくい場所でした。
向こう側がはっきりと見えないほどの規模だったと『信長公記』には記されています。
辰の刻(午前8時)となり開戦します。
信長軍は堀を登って城内へ攻めかかろうとしますが、突き落とされ死傷者がかなりの数にのぼりました。
それでも兵たちは堀を登り続け、
信長自身は堀の端まで陣取り、鉄砲で狭間を撃ちまくらせました。
狭間とは城側が内部から攻撃するための穴のことで、当時は弓矢のための縦長の穴だったと思われます。
信長が初めてに鉄砲を戦いで実用した瞬間です。
長篠の戦いの21年も前のことでした。
「鉄砲取りかへ取かへ放させられ(鉄砲をとっかえひっかえして撃たせた)」と『信長公記』にも記述がある通り、複数の鉄砲を保持していたことがわかります。
前年の斎藤道三との会見で500挺(約2億5千万円ほど)を保持していたと『信長公記』で確認できるので、少なくとも100挺以上は使用していたことでしょう。(『信長公記』での会見の記事はこちら)
津島・熱田港を抑えていた信長の経済力の賜物です。
西、東の織田信光、水野信元も攻撃を続け、今川軍の松平義春たち守兵も良く防いで約9時間にも及ぶ激戦となりました。
信長方・今川方のどちらも大勢の死傷者を出した末、ついに今川方が申の刻(午後5時)に降参し決着となります。
信長の小姓たちも大勢討死したことで、信長は涙を流すという場面もありました。
翌25日に凱旋し、26日には留守を頼んだ安藤守就にお礼と戦いについて報告しました。
これを聞いた道三は「恐るべき男だ。隣国にはいてほしくない人物だな。」と語ったと言います。
すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ
信長の実力が国外にまで届いた戦いでした。
まとめ
以上、村木砦の戦いについて解説しました。
戦いのポイントは以下の通りです。
- 尾張国内外で信長の敵が存在
- 三河(国外)から今川義元が尾張へ進出
- 尾張で貴重な味方・水野信元のピンチに信長が出陣
- 清州城への備えのため、斎藤道三が信長に援軍を送る
- 村木砦の戦いでは信長が初めて鉄砲を使って勝利
信長は村木砦の戦いにて勝利し、水野信元の救出に成功しました。
しかし、完全に今川勢を追い払うことはできず、大高城や鳴海城は依然として今川配下のままです。
また、尾張国内でもまだまだ反対勢力が存在しており、このあとも信長は戦いを続けていきます。
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