大田南畝に狂歌で痛烈批判された松平定信はなぜ文武を奨励したのか?

江戸時代

天明7年(1787)~寛政5年(1793)にかけて、老中・松平定信の主導で実施された寛政の改革。

改革の一つとして、ゆるんだ士風を締め直すために文武が奨励します。

世間から批判を受けながらも奨励し続けた定信の思いは徳川幕府の支配体制を維持するためでした。

意外と知られていない、松平定信が文武を奨励した理由の詳細を解説します。

大田南畝の狂歌 「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 寝てもいられず」の意味

大田南畝
世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 寝てもいられず

天明狂歌の三大家の一人であった大田南畝の有名な狂歌です。

(大田南畝の狂名は四方赤良よものあからです。)

これは、蚊の羽音の「ぶんぶ」と文武の音「ぶんぶ」をかけて、老中・松平定信の寛政の改革の特徴と改革への痛烈な批判を表現した狂歌です。

大田南畝の狂歌の意味
  • 蚊の様子:蚊が世の中で一番うるさい!ぶんぶと(ブンブンと飛ぶ羽音)寝れない!
  • 定信批判:ぶんぶ(=文武)奨励とばっかりうるさい!

さて、大田南畝が痛烈批判するほど、定信が文武を奨励したのはなぜでしょうか。

一般的には田沼時代にゆるんだ士風を締め直すためといわれますが、それだけだったのでしょうか。

実は定信には非常に大きな危機感もあったからだと考えられます。

その理由は2つあり、このあとの章にて解説します。

ちなみに、大田南畝は御家人(御目見得以下の幕臣)でもありました。

面白いことに、寛政6年(1790)に聖堂(のちの昌平坂学問所)で実施された朱子学の試験に御家人の中でトップの成績で合格しています。

批判はしたものの、そこは御家人。

勉強はしっかりしていたですね。

松平定信が文武を奨励した理由①士風の低下

松平定信が文武を奨励した理由の一つには、一般的に伝えられている通り、

旗本・御家人の「士風の低下」があります。

  • 博打にふける武士
  • 酒に任せて暴れる武士
  • 遊郭通いをやめれない武士

など、理想の姿とは程遠い武士が増加し、支配者層としての威厳がなくなってしまってます。

武士にあるまじき行為が目立つ武士を町人が尊敬しなくなる恐れがあり、定信がその是正のために口うるさく、文武を奨励したのです。

辻善之助氏の著書『田沼時代』から旗本たちの腐敗した具体的な様子をいくつか紹介します。

士風の低下の例
  • 明和5年(1768)。
    大番の下枝采女が養父が止めるのも聞かず、博打、芝居、音楽、踊りと遊びにふけっていました
    また、喧嘩でのケガなのに病気とウソを家に籠りながらも、何度も町へ遊びに出かけることがバレます。
    小普請の松崎善四郎と共に遠流となりました。
  • 明和7年(1770)。
    元甲府勤番の旗本、佐々木市五郎と同僚の河野徳五郎が酒を飲んでいた時のこと。
    酒がなくなり、酒屋へ向かいましたが、深夜のため店は閉店。
    佐々木と河野がやたら戸を叩いたため、怒った酒屋が店の中から暴言をはきました。
    番頭が出てくるも、喧嘩がエスカレート。
    怒った佐々木がついに刀で番頭を斬りつけましたが、番頭が棒で対抗し、勝利しました。
    なんと、武士が酒屋の番頭に負かされてしまったのです。
    佐々木と河野は、武士の所業にあらずということで遠流となりました。
  • 安永2年(1773)。
    小普請の花房五郎右衛門が安永元年に病気のために役職を任ぜられました。
    しかし、病気が治っても届出もせず、遊び歩いた挙句。
    遊女を自宅に連れ去ってしまいました。
    遊郭の亭主が花房を訴えたため、事が発覚し、
    花房自身は遠流、父は士籍をはく奪されました。
  • 安永8年(1779)。
    須磨良川が町人たちと博打、遊郭通いをしていました。
    土肥藤四郎という町人を誘い、遊びに連れていく代わりに親の金を盗んで差し出させます
    事が発覚し、同僚の大橋伝七郎、伊藤勘助とともに遠流となりました。
  • 天明5年(1785)。
    藤枝外記が遊郭に通い、遊女と心中をしました。
    藤枝の4,000石は没収となりました。

松平定信が文武を奨励した理由②困窮する武士と経済的に豊かな町人の台頭

両替商の様子
三井の店先の様子

江戸時代中期には、経済的に豊かな町人が増加しました。

特に田沼意次は重商主義で商業を奨励したため、莫大な財をなす町人もあらわれました。

  • 両替商
  • 札差
  • 歌舞伎役者 など

一方で、武士は経済的に困窮していきました。

武士が困窮した理由には大きく2つあります。

武士が困窮した理由
  • 戦いがなく、昇進の機会がなくなった
    (役職が無い武士も多く存在)
  • 役職についても、旗本には「御番入ごばんいり」という役職についた際に同僚、先輩にお礼のパーティをするというイベントがあった
    例)50両の出費(森山隆盛の記録)≒300万~1,500万円

そうすると、生活に困窮した武士が平気で町人に頭を下げてお金を借りるようになっていきます。

この状態を定信は問題視しました。

つまり、支配者層である武士が、被支配者層の町人に低頭するということは、徳川幕府の体制の根幹をゆるがしかねない大きな問題だととらえたのです。

当然、徳川幕府の老中として、一人の武士として定信は強烈な危機感をもったことでしょう。

実際に、老中就任直後の意見書では以下のように書いています。

御触おふれ等出候ても人々用い申さず、かえって誹謗ひぼうを生じ候様に罷りなり、惣じて下勢おのずから上を凌ぎ候様に相見え申し候

天明7年(1787)6月 松平定信の意見書

御触れを出しても、世間の人々は守るどころか誹謗を言ってくる状態にあり、町人たち(下勢)が武士(上)を凌いでいるように感じると率直に記載しました。

士風を低下させ、経済的に困窮していく武士に反比例して、町人は豊かになっていき、ついには武士よりも強い立場になりつつありました。

寛政の改革では、経済的な理由から起きかけている身分制度の逆転現象の防止として棄捐令(借金の棒引き)という強権で対応しました。

しかし、武士の尊厳を守るためには、武士自身が武士らしくあるしかないのです。

大田南畝に「うるさい」といわれるほどに文武を奨励したのは、ゆるんだ士風を締め直すことで、徳川幕府の支配体制を維持しようとしたからです。

まとめ

以上、寛政の改革を推進した老中・松平定信が口うるさく文武の奨励をした理由を解説しました。

最後改めてその理由を下記にまとめます。

定信が文武を奨励した理由は徳川幕府の支配体制を守るため
  • 士風が低下し、支配者としての尊厳が守れていない
  • 経済的に豊かな町人が台頭し、一方で武士の生活は困窮
  • 町人の勢いが武士を凌いでいる
    下勢おのずから上を凌ぎ候
  • 棄捐令で武士の経済的困窮は助けられるが、尊厳は文武を奨励するしかない

    ⇒定信は口うるさく文武を奨励

教科書では清廉潔白な真面目な老中で士風の低下が許せないというイメージで書かれることが多いですが、実態は徳川幕府の支配体制を守るために必要なことでした。

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