小説、漫画、ドラマで頻繁に登場する「花魁」。
多くの方が男性の相手をする遊女というイメージをもちながら、詳細は知らないと思います。
「花魁」とは江戸幕府公認の遊郭である吉原にいた上級遊女のことです。
その階級は非常に厳格で呼び名も金額も細かく決められていました。
この記事では、吉原の階級について解説します。
江戸時代では遊女のことを何と呼んだか
現在では、江戸時代の娼婦のことを「遊女」と呼ぶことが多いです。
ただし、当時では「女郎」と呼ぶことが一般的でした。
文字づらでは女性蔑視のような印象を受けますが、まったくそんなことはありません。
吉原見学が定番の観光コースであった江戸時代当時では、多くの人々にとって憧れの存在で、尊敬をこめて「お女郎」などと呼ばれていました。
女性にとっては髪型や着物を参考にする、ファッションリーダー的な存在でした。
また、吉原の遊女のことは「傾城」ともいいました。
美人が色香で城や国を傾けるという中国の故事に由来しています。
吉原の遊女の階級と呼び名と金額
吉原の遊女には厳格な階級があり、待遇も目に見えて差がありました。
これは妓楼(遊女が所属する店)が遊女同士を競わせて、客に見栄をはらせ、売上を伸ばすためと言われています。
上級遊女=花魁
吉原の遊女の中で上級クラスの遊女のことを「花魁」と呼びました。
ただし、花魁の中でもさらに階級が4つに分類され、それぞれに呼び名があります。
階級順に紹介します。
①呼出し昼三
花魁の中でも最高位を「呼出し昼三」といいます。
揚代(金額)の例は金一両一分(約125,000円)。
呼出し昼三は多数の供を連れて花魁道中をおこないました。
花魁道中とは呼出し昼三が妓楼から客を迎えに引手茶屋(妓楼と客の仲介役)に向かうパレードのようなものです。
花魁道中は非常に華やかで吉原に来た人々にとっては最大の楽しみといえるものでした。
上記の絵にあるように、定紋入りの提灯を若い者(妓楼で働く男の奉公人)に先導され、ふたりの禿(少女)を供にした呼出し昼三が高さ5~6寸(15~18㎝)ある黒塗りの下駄をはいて練り歩いています。
そして、有名な外八文字と呼ばれる独特の歩き方でゆるやかに進みました。
振袖新造(下級遊女)2人と番頭新造(下級遊女)などが後ろから従って、勢力を誇示しているようです。
②昼三
呼出し昼三につづく階級の花魁は、「昼三」です。
揚代(金額)例は、昼夜共金三分(約75,000円)、夜ばかり金一分二朱(約37,500円)。
平常起居する個室と客を迎えるための座敷を与えられ、ともに豪華でした。
「昼三」という呼び名は、昼夜の揚げ代(金額)が金三分(約75,000円)だったことに由来しています。
番頭新造、2~3人の振袖新造、禿がふたりついて見の周りの世話をしてくれました。
一方、昼三も禿が一人前になるまで面倒をみる責任がありました。
③座敷持
昼三につづく階級の花魁は「座敷持」です。
揚代(金額)例は、昼夜共金二分(約50,000円)、夜ばかり金一分(約25,000円)。
平常起居する個室と客を迎えるための座敷を与えられました。
④部屋持
座敷持につづく階級の花魁は「部屋持」です。
揚代(金額)例は、昼夜共金一分(約25,000円)、夜ばかり金二朱(約12,500円)。
個室をあたえられ、そこに平常起居し、その部屋で客も迎えました。
下級遊女=新造
吉原の遊女で、花魁になっていない下級の遊女のことを新造と呼びました。
新造には客をとる遊女と、客をとらない遊女の2種類が存在しました。
振袖新造
客をとる新造を「振袖新造」(略して振新)と呼びました。
揚代(金額)例は金二朱(約12,500円)。
振新には個室はなく、二十畳くらいの部屋で雑居していました。
客をとるときは共有の部屋を利用します。
番頭新造
客をとらない新造を「番頭新造」(略して番新)と呼びました。
上級遊女の雑用を引き受けることが役目でした。
年季明けのあとで勤めるため、多くは30歳を過ぎた遊女です。
禿
花魁のもとにいた10~15歳くらいの少女のことを「禿」といいました。
雑用をしながら、妓楼のしきたりを学び、遊女としてのしつけを受けました。
15~16歳になると、新造となり、客を取り始めます。
吉原の花魁と遊ぶには莫大な金額が必要
最高位の花魁である呼出し昼三の揚代(金額)は金一両一分(約12,5000円)でした。
下級遊女の振新との金額差は10倍です。
現代の感覚で高い、安いは個人の感覚によると思います。
ただ、江戸時代は現代とは逆で、人件費が安く、モノの値段が高かったことを考慮すると呼出し昼三をはじめ、吉原の花魁は非常に高価でした。
また、同じ遊女でも、吉原ではない非公認の夜鷹(=筵一枚で道端に立つ街娼)の場合は24文(約360円。かけ蕎麦と同じくらい)でした。
約350倍もの金額差がありました。
しかも、吉原で遊ぶためには実際には揚代だけでは終わりませんでした。
- 派手な宴会(酒、料理など)
- 芸者
- 関係者への祝儀 など
一晩で100万円くらいかかることもあったようです。
呼出し昼三と遊ぶのであれば、花魁が来るまでの時間も長く、より多くの費用が必要になったことでしょう。
吉原の花魁と遊ぶことができたのはどのような人物か
多額の費用がかかる吉原の花魁と遊んだのはどのような人物だったでしょうか。
劇作『吉原やうし』(天明7年)から紹介します。
呼出し昼三と遊ぶことができた留守居役とは、武士身分で、諸藩の対外折衝役のことです。
幕府との連絡や他藩との情報交換や収集をすることが役職でした。
今の大使館の大使のようなイメージが近いです。
役目柄、潤沢な接待費が自由に使うことができ、情報交換を名目に吉原で遊ぶことが多く、金払いは非常によかったといいます。
自腹を切るわけではないので、自然と派手になったともいえます。
例えば、蔦屋重三郎とタッグを組んだ、朋誠堂喜三二(本名:平沢常富 )が秋田藩の留守居役で、吉原によく通っていました。
まとめ
以上、吉原の花魁の階級による呼び名と金額の違いについて解説しました。
吉原の遊女の中で上級クラスの遊女のことを「花魁」、下級クラスの遊女を「新造」といいました。
また、その中でも細かく階級と呼び名がわかれ、金額も異なってました。
最高位の呼出し昼三と振袖新造は10倍の金額差があり、
吉原以外の非公認の遊女、夜鷹と比較すると約350倍もの費用がかかりました。
それだけに、花魁は男女問わず日本中の人々の憧れであり、尊敬を集めた存在でした。
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