新選組副長として有名な土方歳三。
才能を開花させ、新選組はもちろん、旧幕府軍の中心人物として大活躍します。
函館五稜郭では、旧藩主など数多の徳川家エリートたちを抑えて、陸軍№3にまで上り詰め、新選組を大きく越えた立場となりました。
実は、新選組副長といっても、徳川幕府直属ではなく、社会的ステータスはまだまだ低かったです。
それがわずか5年で独立国家中枢の№3を務めたという事実は、
土方歳三の非凡な才能を物語っています。
この記事では土方が務めた役職を中心に解説していきます。
その役職を知ることで彼の凄さをこれまで以上に感じることができますので、ぜひ最後まで読んでください。
土方歳三の役職①:新選組 副長~京都市中警察集団№2~
「鬼の副長」として名高い土方歳三。
この役職もすごいのですが、当時の社会ステータスや最終的な土方のステータスから見れば、低いと言わざるを得ません。(もちろん、新選組や土方の実力とは別と考えてください。)
なぜならば、
新選組は「会津藩預かり」という立場で、
徳川幕府のどころか、会津藩の直属でもありません。
荒れ狂う京都の治安を維持するために臨時に雇った警察機関でしかなかったのです。
つまり、まだ武士になれた訳ではありません。
この新選組副長というステータスは1867年頃まで続きます。
↓土方歳三のステータス変遷イメージ
新選組 副長の強い権限
非正規の組織とは言え、新選組の実力が高かったのは事実です。
新選組副長とは、組織の全てを掌握する大きな権限をもった役職でした。
1864年6月、池田屋事件が起こった頃の組織図を見れば一目瞭然です。
全て副長に隷属した組織体系になっています。
ちなみに、京都での新選組は時期により組織形態が異なりますが、副長の権限は同じと考えて問題ありません。
新選組の「武」 副長助勤を掌握
副長助勤とは、沖田総司や永倉新八などの幹部たちのことです。
(戦時には「組頭」となります)
上役を補助して働くという「助勤」という名前だけで良かったはずです。
しかし、「副長」助勤とわざわざ命名しており、
副長に隷属した役職であることを強調したのだと考えられます。
つまり、副長は、新選組の「武」を掌握していたことになります。
新選組の「文」 スタッフ職を掌握
新選組のスタッフ職は大きく下記の2つありました。
①勘定方
②諸士調役
①が会計や裁判を取り扱う部署で②が情報収集、つまり軍監やスパイの部署でした。
こちらも組織図の通り、副長に直属する形をとっており、新選組の「文」も掌握しました。
つまり、新選組内部の全権は土方歳三が掴んでいたことになります。
副長による内部統制 局中法度/軍中法度の制定
新選組の全権を掌握した土方歳三は、有名な「局中法度」を制定。
さらには「軍中法度」も策定し、新選組の強力な内部統制を推し進めました。
局中法度は日常の心得。
軍中法度は戦時の心得。
いずれも武士にふさわしくない場合は「潔く死ぬべし」と言った厳格な内容です。
厳しいですが、土方の思想や組織運営への思いを非常に良く反映されています。
【局中法度】
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也
【軍中法度】
一、役所を堅くあい守り、式法を乱すべからず 進退、組頭の下知に従うべきこと
一、私の遺恨ありといえども、陣中において喧嘩口論つかまつるまじきこと
一、組頭討死におよび候とき、その組衆、その場において死線を遂ぐべし もし臆病をかまえ、その虎口逃げ来る族これあるにおいては斬罪、ぎ罪、その品にしたがいて、これ申し付くべき条、かねて覚悟いたし、未練の働きこれなきおう、あいたしなまれるべきこと
一、烈しき虎口において、組頭のほか屍骸引き退くこと無用となすべく、始終その場を逃げず、忠義をぬきんずべきこと
土方歳三の役職②:見廻組肝煎格~幕臣取立~
慶応3年(1867)6月10日、土方歳三のステータスが上がります。
天領(徳川家の直轄領)出身だった土方が長年夢見てきた、
幕臣(徳川家直属の家臣)への取立が実現したのです。
【土方歳三の徳川家での役職】
職名:見廻組肝煎格
給与:70俵5人扶持(約1,000万円)
将軍謁見資格:無し(=御目見以下)
※肝煎・・与頭の助役(=近藤勇の助役)の意味
その他の隊士たちも同時に幕臣へ取立られました。
以下の通りです。
【近藤勇の徳川家での役職】
職名:見廻組与頭格
給与:300俵(約3,600万円)
将軍謁見資格:有り(=旗本)
【副長助勤の徳川家での役職】
職名:見廻組格
給与:70俵3人扶持(約920万円)
将軍謁見資格:無し(=御目見以下)
【諸士調役の徳川家での役職】
職名:見廻組並
給与:40俵(約480万円)
将軍謁見資格:無し(=御目見以下)
局長の近藤勇が唯一、旗本となりました。
御目見以下とは言え、近藤を補佐する人物として土方歳三は他の隊士とは別格の評価となっています。
土方歳三の役職③:伝習第一大隊総督~旧幕府エリート集団トップ~
明治元年(1868年)7月10日、江戸城開城に伴い、北関東~会津へ転戦した土方歳三のステータスは更に向上します。
旧幕府軍の伝習第一大隊の総督への就任です。
伝習隊とは徳川幕府が精鋭部隊として編制した陸軍のことで、
フランス軍事顧問団の直接の指導を受けた、完全洋式部隊のことです。
当時の超エリート集団と理解すればイメージしやすいです。
幕臣になったばかりの土方歳三が、ジャンプアップしてそのエリート集団の半分の総督に就任したのです。(もう半分は伝習第二大隊)
土方歳三のステータスは高まっていきますが、一方で旧幕府軍は敗走を続け、
最北の地である箱館・五稜郭を目指すこととなります。
土方歳三の役職④:陸軍奉行並~独立国家・箱館政府陸軍№3~
明治元年(1868年)10月19日、旧幕府軍は箱館北方の鷲ノ木浜に到着しました。
五稜郭の占領にも成功した旧幕府軍は、
12月15日に独立国家・箱館政府を樹立。
この独立国家の閣僚として土方歳三が参画し、そのステータスが一気に高まります。
その役職は下記の3つを兼任します。
①陸軍奉行並 ②箱館市中取締 ③海陸裁判局頭取
「陸軍少将 兼 警視総監 兼 軍監最高責任者」と言う盛沢山の役職です。
しかも、箱館政府の閣僚は、選挙により決定されており、6位の得票数だった土方の成績とこれまでの実力を反映されたものとなっています。
得票数一位で総裁に就任したのは榎本武揚で、オランダ留学経験のある超エリートです。
旧幕府の中には、元老中の板倉勝静や小笠原長行。
新選組との関係が深い、元桑名藩主・松平定敬などもいました。
このような旧幕府の一流の人物たちと並び、超えるステータスになれた土方歳三の実力は異常なほど高く、想像をはるかに超えるものでした。
①陸軍奉行並
「並」とは次官の意味で、陸軍№3
陸軍トップ(陸軍大将)は松平太郎
陸軍奉行(陸軍中将)は大鳥圭介
陸軍奉行並(陸軍少将)が土方
②箱館市中取締
市中=街中の取締役の責任者
警察機関№1、今で言う「警視総監」
京都以来の新選組を評価
③海陸裁判局頭取
軍法会議最高責任者
軍監の№1の役職
軍中法度などの厳格な内部部統制を評価
まとめ
以上、土方歳三の変遷を役職から見てきました。
新選組副長として有名ですが、明治維新直前に幕臣に取立られた後は
その才能を一気に開花させ、最終的には独立国家・箱館政府の陸軍№3にまで上り詰めます。
箱館政府には、旧幕府のエリートたちや旧藩主が存在していたことを考慮すると、
土方歳三の実力は想像以上だったと断言できます。
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