幕末の京都で尊攘倒幕派の志士たちを恐れさせた新選組。
隊士たちはどこに住んでいたのでしょうか。
新選組が京都に滞在した約5年に本拠地は4か所ありました。
当初は二条城に近い壬生村を屯所とし、組織の拡大にともなって、南へと移動していきました。
この記事では、新選組の屯所、全4か所について紹介します。
「屯所」の意味は?
この記事のテーマ新選組の「屯所」とは新選組の本拠地のことです。
「屯」とは「たむろする」の意味。
集まることを屯集といい、その集まる場所を「屯所」と言います。
新選組の屯所① 八木源之丞邸~壬生浪士組が産声をあげた最初の屯所~
最初の屯所は、新選組がまだ壬生浪士組と名乗っていた頃の八木源之丞邸です。
(文久3年(1863)3月頃から利用)
文久3年(1863)2月23日、総勢240余名の浪士組が京都の壬生村に到着しました。
一行は壬生村の民家や寺院を宿舎にして、分宿します。
この浪士組の中に近藤勇や土方歳三などがおり、八木源之丞邸に入りました。
浪士組は、発案者の清川八郎の策略により、江戸に帰ることになりますが、
井上源三郎(試衛館派)、斎藤一(試衛館派)、新見錦(水戸派)、佐伯又三郎(水戸派)、粕谷新五郎(水戸派)、阿比留鋭三郎(のち病死)を加えた総勢17名が八木邸に宿泊・残留します。
新選組の母体である「壬生浪士組」が結成されました。
壬生浪士組は文久3年(1863)3月15日、「預かり」という身分で会津藩の配下となり、
屯所は彼らが宿泊していた八木邸としました。
永倉新八の『新選組顛末記』によれば、八木邸の前に「壬生村浪士屯所」という大きな看板を掲げたといいます。
屯所となってからも、八木邸の人々は、隊士たちと一緒に生活をし、面倒をみました。
八木源之丞邸: 京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町24
新選組の屯所② 前川荘司邸~京都六角の両替商の別邸、443坪の屋敷~
2番目の屯所は、前川荘司邸です。
隊士が増えたため、八木邸が手狭となり、隣の屋敷を屯所として利用するようになりました。
(文久3年(1863)5・6月頃から利用)
会津藩預かりとなり、八木邸を屯所とした壬生浪士組ですが、
粕谷新五郎の離脱、阿比留鋭三郎の病死により15名となりました。
しかし、この15名では何もできないのも同然だったため、新入隊員の募集を開始します。
隊士は順調に増加し、
2か月後の文久3年6月には約3倍の52名になっていることが在隊名簿から確認できます。
このように人数が急激に増えたため、新たな屯所が必要となり、
前川荘司邸を利用するようになったのです。
前川邸は屋敷の総坪数が443坪。
平屋の建坪は273坪で部屋は12間もありました。
隊士を収容できた前川邸ではこのあと様々な事件の舞台となります。
前川邸は、本家が両替商を営んでおり、京都の役人と繋がりが強い家でした。
そのため、浪士組への宿割りを任され、自身の身内の前川庄司邸を宿に利用しました。
つまり、新選組が壬生へやってきた理由なのです。
当時、前川本家(京都油小路六角)は、掛屋として御所や所司代の公金の出納、奉行所の資金運用の仕事など、色々な公職を兼ねていたため、奉行所や所司代との密接なつながりがあった。
上洛する浪士組(後の新選組)の宿舎を選定するにあたり、市中情勢にも詳しく、役人の信頼も厚かったことから、前川本家が、その仕事を任された。
前川本家では、壬生の地が、京の町はずれにありながら、二条城に近いという点で、地理的条件にも合ったことから、自分の身内である前川荘司の屋敷を提供。
ただし、前川邸の人々は新選組の隊士の世話をすることなく、本家へと引越ししたようです。
屋敷のみ貸出しており、八木邸の人々が継続して隊士の世話をしました。
旧前川邸: 京都府京都市中京区壬生賀陽御所町49
新選組の屯所③ 西本願寺~壬生村の屯所が手狭になり、長州派の寺院へ移転~
3番目の屯所は、西本願寺です。
(慶応元年(1865)3月頃から利用)
西本願寺は壬生村の南に位置し、膨大な敷地面積を保持していました。
新選組は、西本願寺の本堂北側にあった北集会所を屯所と定めました。
(現在の安穏殿あたり)
新選組が屯所を移転した理由は2つです。
移転理由① 新選組という組織の巨大化
新選組が西本願寺移転を検討し出したのは慶応元年が明けてからと考えられています。
前年の元治元年(1864)は6月に池田屋事件、7月に禁門の変が起きるなど、徳川幕府と長州藩との戦いが激化していました。
現実味を帯びてきた長州征伐への参戦のため、新選組はより多くの隊士確保を考えていました。
実際に西本願寺への移転からほどなく、土方歳三は江戸から52名もの隊士を確保して江戸に戻ります。
下のグラフの通り、文久3年の前川邸の屯所利用時から比較して約3倍もの人数になっています。
これだけの人数を収容するには、より大規模な屯所が必要となるので、移転を検討しました。
また、長州藩や倒幕派の志士たちとの戦いが激化しているため、屯所の防御面も重要なテーマでした。
前川邸では出窓や抜け穴を作る等対応をしてましたが、より本格的な防御が必要だったと思われます。
西本願寺の周囲には堀が巡らされているため、移転構想に一致したのでした。
移転理由② 長州藩を匿う西本願寺の監視
西本願寺は禁門の変で、僧侶と信徒によって「金剛隊」を結成し、決起したという事実があいrました。
また、西本願寺では戦いに敗れた長州藩兵を匿い、僧侶に変装させて逃走の手助けをするなどしていました。
このような反徳川幕府の立場をとる西本願寺を屯所にすることによって、監視下におくことも新選組の目的でした。
西本願寺側が嫌がっている様子も伝わっています。
西六条(西本願寺)へは壬生浪人数百人屯し、御門主、殊のほかご心痛のご様子に聞こゆ
(『晴雨日記』より)
新選組が屯所を移転した慶応元年、土佐高岡郡の寺院・真覚寺の住職・井上静照が閏5月13日の日記に残した一文です。
西本願寺移転の影響
西本願寺移転に山南敬介は反対しました。
理由は、
- 西本願寺に同情した
- 尊王派だった山南敬介が勅願寺の壬生寺を離れるのを嫌がった
- 土方歳三が「洋式訓練」推進のため、敷地の広い西本願寺への移転を検討。
「西洋不服」の山南敬介が反対した
など様々あり、明確な答えはわかりません。
しかし、西本願寺への移転を反対したことは確かで、ここに移転推進派の近藤勇や土方歳三との溝ができ、脱走、切腹に至った原因の一つになりました。
西本願寺の移転後にあった変化のもう一つは、幹部隊士たちが個人宅の「休息所」をもうけるようになったことです。
今までは屯所で同居していましたが、幹部たちは西本願寺周辺に休息所から屯所へ出勤するようになりました。
近藤勇、土方歳三、沖田総司は妾を住まわせ、永倉新八、原田左之助など結婚した幹部隊士も多くいました。
西本願寺・安穏殿:京都府京都市下京区堀川通花屋町下る本願寺門前町 聞法総合施設
新選組の屯所④ 不動堂村~長州派の西本願寺が自費で建築した屯所~
4番目の屯所は、不動堂村です。
(慶応3年(1867)6月15日から利用)
新選組を退去させるために西本願寺が自費で新しい屯所を不動堂村に建築し、移転しました。
西本願寺よりやや南。
油小路通りの西側、木津屋橋通りの南側に位置し、大部分は現在の堀川通りとなっています。
不動堂村屯所は相当な規模となっています。
金額は多額に上ったことが容易に想像できます。
約2年にわたる同居生活が非常に苦痛で、それだけの出費をしてでも、西本願寺は新選組に出て行ってほしかったのでしょう。
しかし、不動堂村屯所が利用された期間はわずか6か月でした。
慶応3年(1867)12月9日。
王政復古が宣言され、新政府が樹立され、新政府軍と旧幕府軍との衝突が目前でした。
そのため、新選組は伏見警備を命じられたため、伏見奉行所に移動し、不動堂村を退去するのです。
不動堂村屯所跡:京都府京都市下京区松明町600 8237
まとめ
以上、新選組の京都での屯所を紹介しました。
新選組という組織が巨大化するにつれて、新しい屯所を定め、日々の活動をしました。
4つの屯所を利用した新選組は、伏見奉行所へ移動しますが、鳥羽伏見の戦いに敗れ、わずか半月で撤退。
大坂・江戸へと敗走しますが、新選組は土方歳三を中心に最期まで新政府軍と戦い続けることになります。
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