NHK大河ドラマ『どうする家康』で有村架純さんが演じた瀬名姫(築山殿)は、徳川家康と結婚し、正妻となった女性です。
後に家康によって殺害されるため、通説では悪女として語られますが、本当だったのでしょうか。
この記事では瀬名姫が築山殿と呼ばれるまでの前半生について解説します。
瀬名姫の出自
実家は今川家御一家衆
瀬名姫は駿河国(静岡県)の戦国大名、今川氏御一家衆の関口氏の出身で
父は関口氏純と言われています。
今川氏は清和源氏の支流で、室町時代から駿河・遠江国の守護大名となった名門です。
歴史ある名門の御一家衆である関口氏も間違いなく名門です。
つまり、
瀬名姫は名家のお嬢様です。
父の氏純は、今川家御一家衆であった瀬名氏貞の次男として誕生し、
関口氏へは婿養子として入り、家督を継いだ人物です。
天文5年(1536年)閏10月17日に京都の冷泉家へ手紙を出しており、
今川家の外交に携わっていたため、実力もあり、
今川義元からも信頼の厚い人物でした。
実家は関口氏ではありますが、
後世になって「瀬名氏の姫君」⇒「瀬名姫」と伝わるようになったようです。
結婚は立場上位。
そんな良家の姫君が結婚相手と定められたのが、
当時、今川氏の元で生活していた
徳川家康でした。
弘治2年(1556年)正月15日のことでした(弘治3年説もあり)。
瀬名姫は15~17歳で
家康は当時15歳で元服したばかり。
家康にとっては、今川御一家衆の姫君で、
憧れの存在だったかもしれません。
この結婚は非常に幸運な縁ですよね!
義元から相当に期待され、大事な存在だったのでしょう。
家康はこれ以降、今川家御一家衆として活躍していきます。
瀬名姫の方が家格が上のため、
結婚後も実家の隣屋敷に居住していたようです。
駿府の宮ケ崎という場所(『三河物語』)で、
現在も静岡市葵区宮ケ崎町として存在し、報土寺あたりだったと伝わっています。
↓家康と瀬名姫が居住していたとされる駿府・宮ケ崎
瀬名姫の実家・関口氏に頭が上がらない家康
婿養子であり、西三河の一領主だった家康は、
瀬名姫の実家・関口氏には頭が上がらなかったようです。
それを窺える書状が残っています。
永禄2年(1559年)5月16日に、家康が家臣団に対して出した7か条です。そこには
”万事分別せしむるの事、元康たとえ相紛れるといえども、達って一列して申すべし、その上承引せざれば、関刑(関口氏純)・朝丹(朝比奈親徳)へ其の断り申すべき事”
という一条があり、家康が家老の判断に従わない時は、
家老みんなで家康に申し入れをし、それでも家康が承知しない時、
関口氏純、朝比奈親徳へ訴訟するようにと
自ら発信しているのです。
【訴訟の序列】
家康 < 関口氏純
どのようなことがあっても、義父には逆らえなかったのだろうと推察されます。
お嬢様の瀬名姫に対しても同様、頭が上がらなかったと思います。
嫡男信康、長女亀姫を出産
永禄2年(1559年)3月、二人の間に長男の信康(幼名は竹千代)を出産。
正室である、瀬名姫の男の子だったため、嫡男と定められています。
ちなみに戦国時代では嫡男≠長男なので、信康が跡継ぎと定められたのは瀬名姫の立場のおかげです。
翌年の永禄3年(1560年)には長女の亀姫を出産します。
亀姫は、長篠の戦いで大活躍する
三河作手領の国衆・奥平信昌に嫁いで4男1女を儲けました。
二人とも歴史に大きく名前を残しますが、嫡男の信康は非常に優秀で、
関ケ原の戦いの際には、父家康が戦況が悪く、狼狽した際に、
「倅がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言ったという逸話も残っています。
”築山殿”と呼ばれるように
桶狭間の戦いで敗北
名家の姫として、一男一女を儲けて不自由なく過ごしてきた瀬名姫に転機が訪れます。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いです。
尾張の織田信長に今川義元が敗死しました。
敗戦をきっかけに、
夫・家康は本領の岡崎城へ入城しています。
↑今川方として岡崎の守りとして!
同時に、
駿府で生活していた瀬名姫は長女亀姫と共に岡崎に移住したとされます。
永禄4年(1561年)4月に家康は、
今川氏の拠点の牛久保城(愛知県豊川市)への攻撃を開始し、
反今川氏の立場を鮮明にしました。
これは瀬名姫の立場からすると、本宗家の今川氏及び
実家の関口氏と絶縁状態となり、
敵対することになってしまいました。
これまで、今川氏御一家衆・関口氏の娘として、庇護され、
夫よりも上位の存在として過ごしてきた瀬名姫はゆかりのない土地で心細く
大きな不安を抱いたのではないでしょうか?
不安を抱きながらも、嫡男信康と長女亀姫を立派に育て、
松平家を支えるために強く生きようと決意したのだろうと思います。
夫と岡崎へ移住
岡崎へ移住した瀬名姫ですが、岡崎城で家康と同居をしなかったようです。
”彼の御娘家康の御前は三河へ御座候て、つき山と申す所に御座候、是をつき山殿と申し奉るなり”(「松平記」)
上記の通り、「つき山」という場所に居住していたために
「築山殿」と称されるようになったと言います。
また、詳細は不明ですが、
「築山」とは岡崎城の北東約1㎞のあたりに位置する
現在の愛知県岡崎市久右衛門町周辺という記録もあるようです。
今川義元の母、寿柱尼も別居していたようなので、
当時では別居していたから夫婦仲が悪かったとわけではなく、
珍しいことでもなかったようです。
築山殿に朗報がもたらされたのが、永禄5年(1562年)2月のことです。
駿府で人質となっていた、嫡男信康が今川氏との人質交換によって、
岡崎に引き取られることになりました。
永禄6年(1563年)3月2 日には信康と織田信長の五女である五徳との婚約。
永禄10年(1567年)5月に結婚をしています。
通説では、五徳が仇敵である信長の娘であったため、築山殿と仲が悪かったと言われますが、
嫡男信康の将来の安泰を得られる結婚は素直に喜んだだろうと想像します。
ちなみに、敵対する今川氏の人質となっていた嫡男信康が殺されなかったのは、
祖父が関口氏純だったからだと「三河物語」には記述されています。
実家とは絶縁状態だったとはいえ、ここでも築山殿の家柄が役にたったといえるエピソードです。
家康の浜松移住。完全別居状態。
永禄11年(1568年)2月、徳川家康は武田信玄と同盟を結びます。
信玄の今川領侵攻に合わせて、家康も今川領への攻撃を開始し、
瞬く間に遠江国を支配下に置くようになりました。
ところが、翌年には信玄との関係が悪化し、
その対応のために家康は浜松城へ移住することとなりました。
この移住には築山殿が同行することはなく、
継続して岡崎に居住しました。
結婚15年目で、家康29歳、築山殿29~31歳のことでした。
また、2人の子供も岡崎に居住したままで、嫡男信康は岡崎城に家康の城代として置かれたのでした。
まとめ
以上、瀬名姫の結婚時代について書いていきました。
家格の高い家に生まれ、不自由なく暮らしてきたお姫様でした。結婚後も実家の隣に居住し、将来の天下人の徳川家康も頭が上がらない存在だったようです。
しかし、桶狭間の戦いに本宗家・今川家が織田信長に敗れたことから生活が一変します。
20年以上過ごした駿府を離れ、岡崎へ移住。その後に夫の家康が今川家と対立することで実家と絶縁状態になりました。
それでも、徳川家を支えることを選んで生き抜いたとても強い女性だったのだと思います。
「どうする家康」では明るい女性に描かれるようです!楽しみですね!
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