桶狭間の戦いは小勢の織田信長軍が大軍の今川軍に立ち向かい勝利した戦いとして著名です。
信長が軍を迂回させて、休憩中の今川義元の本陣を奇襲し、奇跡的な勝利したというのが長らく通説でした。
しかし、この通説はもう古いのです!最新の研究では堂々たる「正面攻撃」で奇襲作戦ではないことが当たり前です。
じつは「正面攻撃」は藤本正行さんによって1980年代に発表されましたが、令和の今でも奇襲作戦との小説や解説を多くみかけるという不思議な状況にあります。
今回は有名な桶狭間の戦いの真の姿を解説します。
もう古い!桶狭間の戦いの通説をふり返り
桶狭間の戦いの真の姿を見る前に通説をざっと振り返りたいと思います。
通説のポイントは以下の4つがあります。
- 今川義元は天下を正すために上洛をめざした
- 田楽ヶ窪という谷底に本陣をしいて休憩
- 簗田政綱を使って正確な情報収集し、奇襲を進言
- 信長は精鋭を率いて義元本陣の後ろへ迂回し奇襲をかけた
今川義元は天下を正すために上洛をめざした
今川義元の出陣の目的は古くから「上洛」と考えられてきました。
永禄3年(1560)5月10日。
室町将軍家の足利一門である超名門の今川義元が駿河・遠江・三河の大軍勢を率いて京都を目指します。
途中で通過する国は尾張。
すなわち織田信長という若く、小国の戦国大名の存在が邪魔でした。
そして、信長討伐を目的とした今川義元と対抗する信長が桶狭間で戦うことになるのです。
【今川義元の出陣目的を上洛と書いた主な史料】
- 甫庵信長記(1611年12月頃成立)
- 改正三河風土記(1837年成立)
- 徳川実紀(1843年成立)
- 近世日本国民史(著者:徳富蘇峰 成立:1918年~)
今川義元については下記も参考にしてください。
田楽ヶ窪という谷底に本陣をしいて休憩
永禄3年(1560)5月19日。
今川軍の先陣である松平元康(のちの徳川家康)が織田方の丸根砦を攻め落としました。
さらに、朝比奈泰朝が鷲津砦を攻撃し、落城させます。
緒戦の勝利に気を良くした義元は桶狭間の田楽ヶ窪で昼食をとるために休息しました。
当然、田楽ヶ窪が今川軍の本陣にあたります。
この休憩が義元の命取りとなってしまうのです。
簗田政綱を使って正確な情報収集し、奇襲を進言
通説では、この今川義元の動きを信長は正確につかんでいました。
それを支えたのが簗田政綱でした。
緒戦の勝利に酔いしれた今川義元とは反対に信長は善照寺砦で激怒します。
次の手について家老ともめていたところ、
政綱が放った諜者が以下の情報を持ち込みます。
- 義元が大高城に入るために桶狭間に向かった
- 田楽狭間(田楽ヶ窪)に駐屯
そこで義元本陣を奇襲することを信長に進言し、採用されることになるのです。
信長は精鋭を率いて義元本陣の後ろへ迂回し奇襲をかけた
簗田政綱の「奇襲作戦」を採用した信長は早速行動に移します。
信長は善照寺砦に多くの旗をたてて大軍が守備しているように偽装します。
信長自身は2,000の兵を率いて出陣。
信長軍は旗を体に巻き付けて密かに迂回し、義元本陣の背後の山である太子ヶ根に向かいました。
さらに幸運なことに急に大雨が降り、信長軍の隠密行動を助けます。
そして信長軍はは太子ヶ根山を駆け下りて義元の本陣に殺到しました。
完全に油断していた今川軍は大混乱に陥ります。
義元は旗本300人と共に退却しますが、徐々に人数を減らし50人程となりました。
そして、服部小平太が義元に斬りかかり、毛利新介がついに首をとったのです。
以上が桶狭間の戦いの通説です。
しかし、あとにも記載しますが、この通説の根拠は江戸時代に書かれた小説が根拠となっているだけで、「迂回奇襲作戦」は一次史料(戦いや事件が起こった時代に書かれた史料)にはどこにも書かれていないのです・・・。
桶狭間の戦いは正面攻撃!『信長公記』が伝える真の姿とは
上記の通説に疑問を投げたのが歴史研究者の藤本正行さんです。
1980年代のことです。
藤本さんは信長研究の一級史料であり一次史料(戦いや事件が起こった時代に書かれた史料)である『信長公記』を丁寧に読み解いて正しい姿を見出しました。
『信長公記』
全16巻。
織田信長の家臣・太田牛一が実体験をもとに著作。
信長の入洛から本能寺の変で最期をとげるまでの事歴を,年月を追って記述したもの。
実際に信長に仕え、合戦にも参加していた太田牛一が記述したことから信頼性が非常に高い
ここからは藤本説と『信長公記』をもとに桶狭間の真の姿を見ていきたいと思います。
先に桶狭間の戦い、真の姿のポイントは大きく4つです。
- 今川義元は上洛を目指していない
⇒今川軍の織田領・尾張への侵攻への対抗から起きた戦いが桶狭間の戦い
(よくある境界争いに端を発したローカル戦) - 義元の本陣は桶狭間山
- 信長軍は堂々たる正面攻撃
- 信長は「義元の首だけ狙え」などと命じていない
桶狭間の戦いが起こった遠因 今川軍の尾張侵攻
少し時が遡りますが、信長が家督を継いだ天文21年(1552)。
信長方の鳴海城の城主・山口教継が今川へ内通しました。
山口教継は大高城と沓掛城も調略により今川方へ引き入れたのです。
特に鳴海城は信長の居城清州城からたった18キロほどの立地で、放置しておくと今川へ内通する豪族がさらに増える恐れがありました。
すなわち、今川軍があからさまに尾張侵攻を始めていたのです。
信長の対抗 5つの付城を築城
これに対し、信長は付城(敵城攻略のために近辺に作る城のこと)を5つ築きました。
- 丹下砦
目的:鳴海城を攻める
城主・守将:水野帯刀など - 善照寺砦
目的:鳴海城を攻める
城主・守将:佐久間信盛・佐久間信直(兄弟) - 中嶋砦
目的:鳴海城を攻める
城主・守将:梶川高秀 - 丸根砦
目的:鳴海城と大高城の遮断
城主・守将:佐久間盛重(佐久間大学) - 鷲津砦
目的:鳴海城と大高城の遮断
城主・守将:織田秀敏・飯尾定宗父子
これらの砦により、鳴海城は織田領の中で突出した状況となり、孤立してしまうことに・・
この状況を打破するために、今川義元は鳴海城への後巻(援軍)が必要となり、出陣を決定します。
つまり、桶狭間の戦いとは、三河から尾張へ侵攻した今川軍と自領を守ろうとした信長軍という図式のよくある境界争いであり、ローカル戦だったのです。
今川義元は特に天下・上洛を目指して出陣したわけではないと言えます。
桶狭間の戦い前夜までの動き(今川軍の動き)
永禄3年(1560)5月10日。
今川義元は45,000の大軍を率いて駿府を出発します。(実際は25,000が有力)
同日に藤枝に到着し、11日には掛川に到着しました。
13日、浜松に到着し、14日に吉田、15日に岡崎に到着。
18日には義元が沓掛城に入城しました。
その夜には松平元康(のちの徳川家康)が味方の大高城へ兵糧の運び入れに成功し、まさに順風満帆でした。
そして運命の19日の決戦を迎えることになります。
家康の活躍については下記も参考にしてください。
桶狭間の戦い前夜までの動き(信長軍の動き)
一方の信長方の動きはどのようなものだったでしょうか。
永禄3年(1560)5月18日の夕刻。
丸根砦の佐久間盛重と鷲津砦の織田秀敏から以下の報告が信長にされました。
- 18日の夜に大高城へ兵糧を入れる見込み
- 19 日の朝には満潮で信長軍が来援しにくい時間に合わせて丸根砦と鷲津砦を攻撃する
しかし、その夜の会議では作戦に関する話題が一切出ず、解散となりました。
19日の夜明け方、佐久間盛重と織田秀俊から「すでに丸根砦と鷲津砦は今川方の攻撃を受けている」と報告が入ります。
清州城からの出撃
報告を受けた信長は、「敦盛の舞」を舞いました。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と。
そして熱田までの三里(約12キロ)の道を一気に出陣しました。
この時従ったのは小姓の5名のみでした。
- 岩室長門守
- 長谷川橋介
- 佐脇良之
- 山口飛騨守
- 賀藤弥三郎
辰の刻(午前7~9時)には鷲津砦と丸根砦は落城し煙が上がっていたといいます。
信長は熱田からは、まず丹下砦に向かい、善照寺砦へ入城。
兵が整うのをまち、戦況を見極めることにしました。
今川義元が桶狭間山に着陣 北西に向かって陣を張る
午の刻(午前11時~午後1時)。
今川義元は「おけはざま山(桶狭間山)」で「戌亥(北西)」へ向かって戦闘態勢を取り、軍勢を休息させました。
対する信長軍の本陣は善照寺砦です。
すなわち、北西に向かって布陣した今川軍は、善照寺砦の南東方面に展開したことになります。
通説では、田楽ヶ窪に着陣したことになってますが、実際には「桶狭間山」です。
「ハザマ(狭間)」という音から「谷底」を連想したにすぎず、今川軍は信長軍を見下ろせる位置に布陣しているのです。
しかも、北西方向を向いたと、『信長公記』には明記されており、義元が油断している様子も見られません。
(勝利に酔いしれ、謡を3番もうたったとはあるのでご機嫌ではありました)
善照寺砦の信長の目前で起きた小競り合い
信長が善照寺砦に着陣後、信長の目の前で小競り合いがおきます。
佐々政次・千秋季忠の2将が兵300を率いて今川勢に向かい、50人程がその場で討ち死しました。
通説ではこの後迂回して奇襲作戦の実行に移りますが、真の姿は次の通りです。
善照寺砦からさらに低地の中嶋砦へ移動 信長軍は今川軍から丸見えになる
この戦闘を目にした信長は中嶋砦への移動を決定します。
家老たちは「敵から小勢であることがはっきり見えるのでお止めください」と必死でとめました。
しかし、信長は反対を振り切って中嶋砦への移動を実行します。
中嶋砦は付近ではもっとも低い場所になり、南側の丸根砦と鷲頭砦のある丘陵は今川軍に占拠されています。
また、南東には佐々と千秋を打ち負かした今川軍もいました。
周りを全て今川軍に抑えられた状態のため、家老たちの言葉からは必死な様子が伝わってきます。
「制止を振り切って中嶋砦に移った以上、信長には奇襲をかけるため密かに行動するつもりなどなかったことが明らかである」との藤本さんの指摘はもっともですね。
中嶋砦からの出撃
中嶋砦に移った信長は、さらに前進しよう試みました。
家老たちは信長自身の出撃を無我夢中でしがみついて制止します。
それに対して、信長は全員へ明快な指示を出しました。
- 敵兵は丸根砦と鷲津砦での戦いで疲れ切っている。
味方は新手(元気いっぱい)なので戦える - 敵が攻めてきたら退け
- 敵が引いたら引っ付いて攻撃しろ
- 敵の首は取るな
- 勝てば参加者は全員に恩賞を与える
信長は「狙うは義元の首のみ!」などという無茶は全く言っていません。
また、本来は手柄の証拠となる首はをとることを禁止し、戦いに集中することとしています。
逆に勝つことのみしか恩賞をもらえないため、部下たちは頑張らざるをえなくなりました。
実際に、若き日の前田利家は桶狭間の戦いに参加し、信長へ首をもっていきましたが、何の恩賞にもあずかりませんでした。(利家はこの時信長から勘当されており、復帰を目指していました。もちろん恩赦もありませんでした。)
ちなみに、信長は敵兵は疲れ切っていると言っていますがこれは間違いです。
丸根砦を攻めた松平元康は大高城へ入城して戦場にはいなかったからです。
これは完全に信長の勘違いでした。
今川軍への接近 急遽の豪雨が発生
信長が山際まで軍勢を接近させたところ、急遽の豪雨となりました。
雨はすさまじく、敵の顔に打ちつけ、味方には背中から降りかかりました。
大きな楠が雨のせいで東へ倒れたほどの勢いだったようです。
通説では雨にまぎれて今川軍の背後に迂回していますが、『信長公記』によれば、豪雨になったのは、信長軍が中嶋砦を出撃して山際に接近してからのことでした。
すなわち、信長軍が中嶋砦を出て前進してくることは今川軍からは丸見えだったはずです。
豪雨の様子から信長軍は東向きに進撃したことになるので、「迂回奇襲説」のように北へ南へとは移動していないことがわかります。
雨上がり後に決戦が開始し、今川義元は最後を迎える
空が晴れるのをみて、信長自身が槍をもち、「懸かれ懸かれ」と大声で命じ、今川軍は総崩れになりました。
信長は「旗本はこれぞ!これを攻撃せよ」と命じ、未の刻(午後1時~午後3時)に東に向かって攻撃します。
今川軍は300人程でまん丸になって義元を守り、何度も踏みとどまるも最終的には50人程に減少していきます。
信長自身も馬から降りて若者と先を争って戦ったというので、まさに総力戦だったのでしょう。
戦いは激しく、信長の馬廻、小姓をはじめたくさんの死傷者が続出しました。
しかし、遂に、服部小平太が義元に斬りかかり、毛利新介が義元の首をとり、終戦となりました。
通説では豪雨を利用して奇襲をかけたとされてきましたが、『信長公記』では空が晴れてからと明記しています。
また、信長はここで初めて「旗本はこれぞ!これを攻撃せよ」と命じています。
総大将が戦場で命を落とすことは珍しく、信長自身も義元の首をとれるなど最初から思っていなかったはずです。
そして、ここでも東向きに攻撃をしていることが確認できるので、桶狭間の戦いは「迂回奇襲」ではなく、堂々たる正面攻撃だったと言えるのです。
桶狭間の戦いの通説の問題点
桶狭間の戦いの真の姿を紹介しましたが、通説の問題点について改めて整理します。
通説を広めたのは『日本戦史 桶狭間役』(1899年)や『近世日本国史』(1918年~)
⇒これらの根拠が『甫庵信長記』という小説になっている
すなわち、通説はフィクションだったという点が問題
迂回奇襲説の原点『甫庵信長記』とは
迂回奇襲説の初見は『甫庵信長記』に記載されています。
通説の原点ですが、どのような書籍だったのでしょうか。
作者:小瀬甫庵
作者の生誕:1564年
作者の死亡:1640年
成立:1611年12月頃
甫庵は尾張の出身で、豊臣秀次、堀尾吉晴、前田利常に仕えたという儒学者です。
出生をみれば一目瞭然ですが、甫庵が生まれたのは桶狭間の戦いが終わった1564年のことです。
つまり、甫庵には『信長公記』の作者・太田牛一のような体験者としての執筆はできませんでした。
甫庵は『信長公記』を下敷きにして、自由に『甫庵信長記』を完成させたのです。
このような経緯から、『甫庵信長記』は以前から良質な史料ではないことは広く知られていたのですが、なぜか桶狭間の戦いについては甫庵の説が長年浸透していたのです。
その理由は『甫庵信長記』を100%信用して作られた旧参謀本部 の『日本戦史 桶狭間役』の存在です。
じつは『甫庵信長記』には奇襲を考えたのは信長自身で簗田政綱は同意しただけという構成になっています。
『日本戦史 桶狭間役』がさらに話を書き加え、世の中に定着させたのです。
迂回奇襲説を広げた旧参謀本部 の『日本戦史 桶狭間役』と徳富蘇峰の『近世日本国史』
迂回奇襲説を決定的としたのは『日本戦史 桶狭間役』の第2編第4章の記事でした。
ここで通説で紹介したように簗田政綱が今川義元の行動・本陣のリアルタイム情報をもってきて奇襲作戦を進言したことが書かれています。
参謀本部が上記を編纂したのが、1899年。
桶狭間の戦いから300年以上たった時のことです。
戦争のプロである参謀本部の軍人が言っているのだから信用されるのも無理はないですが、否定されることがないまま多くの歴史書や小説に書かれたために広く浸透してしまったのです。
そして、徳富蘇峰の『近世日本国史』でこの『日本戦史 桶狭間役』が全面的が踏襲されました。
『近世日本国史』では桶狭間合戦を生き生きと記述しており、通説をさらに浸透させることとなりました。
そして、第二次世界大戦後には軍事学の研究をすることが憚られたという背景もあり、藤本正行さんが指摘をするまで変わらない事実となったのです。
迂回奇襲が非合理的な2つの理由
さて、最後に迂回奇襲が現実的でない理由を3つ挙げたいと思います。
- 義元の首を狙った奇襲なら最短距離・最短時間で実行が必要
- 簗田政綱が伝えてきた情報が正しいとは限らない
義元の首を狙った奇襲なら最短距離・最短時間で実行が必要
義元の本陣がわかったとして、情報通りずっとその場所にいるのでしょうか?
移動しないという保証はありません。
つまり、もし奇襲をかけるのであれば最短距離かつ最短時間での実行が必須なのです。
通説のように迂回をして背後に回っている時間はありません。
迂回中に義元が移動してしまうと作戦失敗になってしまうので、作戦に組み入れるわけにはいきません。
簗田政綱が伝えてきた情報が正しいとは限らない
そもそも簗田政綱が伝えてきた情報が正しいのでしょうか?
戦場は今川の大軍が支配している状況でした。
簡単に情報を取得できるとは考えにくいです。
仮に簗田政綱やその配下の諜者が優秀で情報をとれたことが事実だったとしても、今川軍が支配している戦場の情報が正しいとは限りません。
今川軍がわざと虚報を流している可能性があり、真偽を確かめる必要があります。
しかし、義元本人を狙った奇襲にそんな時間はなく、迂回奇襲説との相性が非常に悪いです。
実際に信長自身、中嶋砦で敵兵が戦いで疲弊していると勘違いしており、情報を正確につかめていないことが『信長公記』に明記されています。(本記事「中嶋砦からの出撃」参照)
まとめ
以上、桶狭間の戦いの真の姿について紹介しました。
通説で長らく迂回奇襲による劇的な勝利とされてきましたが、『信長公記』を丁寧に読み解いた藤本正行さんにより、堂々たる正面攻撃だったことがわかり、有力な説となっています。
- 善照寺砦から迂回したのではなく、中嶋砦へ移動している
- 中嶋砦は低地で移動も丸見えなので、隠密行動の意図は信長になかった
- 『信長公記』の記述から東へ向けて今川軍へ攻撃をしかけたことがわかる
すなわち、信長は堂々たる正面攻撃を実行していた!
とはいえ、いまだに桶狭間の戦いについてはたくさんの論争が出ています。
しかし、迂回奇襲説が成り立たないことは学会では共通認識にはなっています。
一般にもこれからもっと広がっていくはずです!
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