織田信長は大うつけではない⁉「信長公記」にみる真面目な青年時代

徳川家康

この歴史上の人物。ご存知ですか?

戦国三英傑の一人・織田信長です。

教科書では見かけない姿ですが、14歳の信長・初陣の図と伝わっています。

信長の若い頃は「大うつけ者」(大馬鹿者)と呼ばれていたことは有名ですよね。

奇抜なファッションや行動を取るものの、
実は意外と真面目に日常生活を送っていました。

今回は織田信長の出生~意外な一面をもった青年時代を紹介します!

「大うつけ」と呼ばれた織田信長の出生

天文3年(1534年)5月 尾張国・勝幡しょばた(愛知県稲沢市)で織田信長が誕生します。

後の天下人・豊臣秀吉より3歳、徳川家康より8歳年上になります。

勝幡城は祖父・信定によって築かれたと言われており、織田弾正忠家の財布を大きく支える津島湊を抑える超重要拠点でした。

織田信長生誕の城 勝幡城|稲沢市観光協会 (inazawa-kankou.jp)
↑勝幡城について詳細に記載されています。
立派な城だった様子がわかります。

↓勝幡城址

信長の幼名は吉法師きっぽうし

父は織田信秀
母は土田どだ政久の娘

同母弟には後に信長に刃を向ける勘十郎信勝。

異母兄には信広と秀俊の二人がいます。

その他伊勢長野氏の名跡を継ぐ信包(長野信良)
後の有楽斎うらくさい・長益など数多くの兄弟がいました。

織田弾正忠家嫡男・織田信長の元服と初陣

13歳・元服

信長は幼い時から嫡男(後継者)として扱われていました。

天文13年(1544年)までには父・信秀が居城していた那古野城(愛知県名古屋市中区)を譲られます。

那古野城は信秀が謀略を使って、尾張今川氏から奪い取った城です。
三河進出を伺う信秀にとって重要拠点でした。

さらに、守役には4人の宿老をつけられました。

【信長に付けられた4人の宿老】
・宿老筆頭 一長いちのおとな 林新五郎秀貞

・宿老 二長 平手中務丞なかつかさのじょう政秀

・宿老 三長 青山与三右衛門尉勝介

・宿老 四長 内藤勝介

守役の一人、経理担当・平手政秀。外交能力に長けていた。

天文15年(1546年)13歳になった信長は
4人の宿老と共に、信秀の新居城である古渡城に赴いて元服します。

名前を織田三郎信長と改めました。

通称「三郎」 … 父・信秀と同じ名乗り

実名(いみな)「信」… 織田弾正忠家の通字

当主・信秀と同名を名乗ることで、正式な後継者ということを宣言したわけです。

↓那古野城跡

14歳・初陣

元服した翌年の天文16年(1547年)に

信長は「武者始」すなわち初陣を飾ります。

冒頭でも紹介した、こちらの絵がその時の様子です。

初陣の支度は守役の平手中務丞政秀が手配したと『信長公記』は伝えます。

攻撃先は、今川方が籠る三河吉良・大浜(愛知県碧南市及び西尾市)でした。

那古野城からは約60㎞(自動車だと下道1時間30分程の距離)です。

14歳の信長はその長距離で軍勢率いて三河へ侵攻。所々に放火をしています。

戦い当日は野宿をして、翌日に那古野城へ帰還しました。

『信長公記』にみる~意外と少ない織田信長の「うつけ」ぶり~

信長の若い頃は「大うつけ者」ということで有名です。

1つ1つが強烈なエピソードなので記憶に残りやすいですが、数としては意外にも少なく、
『信長公記』には大きく3つだけです。

ちなみに「うつけ者」を広辞苑で調べると、以下とあります。

おろか者。のろま。うっかり者。

広辞苑

①奇抜なファッション

『信長公記』には信長の普段のファッションについて以下の記述があります。

其比の御形義明衣の袖をはつし半袴ひうち袋色々余多あまた付させられ御髪はちやせんにくれなゐ糸もゑき糸にて巻立ゆわせられ大刀朱ざやをささせられ悉朱武者に被仰付

・袖を外して浴衣を着る
・半袴(短い丈の袴)
・火打ち袋など、たくさんぶら下げる
・髪は紅色や萌黄色の糸で茶筅髷に
・太刀は鞘を朱色に
・お付きの者には武具を朱色にすることを命じる

武具を朱色は赤備えで有名な武田家も実施してますね。

次に、父・信秀の葬儀の際のファッションは以下の記述です。

信長御焼香に御出其時信長公御仕立長つかの大刀わきさしを三五なわにてまかせられ
髪はちやせんに巻立袴もめし候はて、

・太刀、脇差を実子みご縄(わら縄)で巻く
・髪は茶筅髷に
・袴は履かない

最後に、義理の父・斎藤道三と聖徳寺での会見時のファッションについても記述があります。

其時信長の御仕立髪はちやせんに遊し、もゑきの平打にて
ちやせんの髪を巻立ゆかたびらの袖をはづしのし付の大刀
わきさし二ツなから、長つかにみごなわにてまかせ
ふとき苧なわ うてぬきにさせられ
御腰のまわりには猿つかひの様に火燧袋
ひようたん七ツ八ツ付けさせられ虎革豹革四ツかわりの半袴をめし

・髪は茶筅髷を萌黄色の平内紐で巻く
湯帷子ゆかたびら(浴衣)を袖脱ぎに
熨斗付のしつき(金銀飾り)の太刀と脇差二本とも長い柄を実子縄(藁縄)で巻く
・太い芋縄(麻縄)を腕輪に
・腰の周りには猿廻しのように火打ち袋、 瓢簞ひょうたんを七つ八つほどをぶらさげる
・虎皮と豹皮を四色に染め分けた半袴を履く

↓信長のファッションのイメージです

中日新聞より https://plus.chunichi.co.jp/blog/mizuno/article/233/532/
茶筅髷の様子①。「映画レジェンド&バタフライ 公式HP NEWS」より
https://legend-butterfly.com/news/?paged=3
茶筅髷の様子②「映画レジェンド&バタフライ 公式HP WEB MAGAZIN レジェバタ公記」より
https://legend-butterfly.com/magazine/magazine08.html
茶筅髷の様子③ 腰に縄も見える。「映画レジェンド&バタフライ 公式HP WEB MAGAZIN レジェバタ公記」より
https://legend-butterfly.com/magazine/magazine02.html

②街中で人目を気にしない行動

『信長公記』には信長の普段の行動について、以下の記述があります。

御通の時一目をも御憚無
くり柿申及不瓜をかふりくひニなされ
町中にて立なから餅をほおばり
人により懸り
人の肩につらさがりてより外は
御ありきなく候

・人目を憚らず、栗・柿はもちろん、瓜もかぶり付く
・街中で立ちながら人により懸かって餅を食べる
・いつも人の肩にぶらさがって歩く

③父・信秀の葬儀で焼香投げつけ

仏前へ御出有て抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投懸御帰

先述のファッションに加え、

・父・信秀の仏壇に抹香をかっと投げつけて帰った

特に③のインパクトが強烈ですが、信長の「うつけ」ぶりの記述は少なく、
ファッションに集約されてます。

『信長公記』にみる~真面目に学んだ織田信長の青年時代~

一方、普段の生活については次の重要な記述があるので、紹介します。

真面目に稽古をする毎日

信長十六七八まては別の御遊は無
御座馬を朝夕御稽古
又三月より九月まては川に入
水練の御達者也

・16歳~18歳までは遊びにふけることが無かった
・朝夕に馬の稽古
・3月~9月までは川で水練をし、泳ぎは達者だった

この記事は先述の奇抜ファッションと同時期です。
こちらでは「うつけ」の様子は全くなく、非常に真面目で、集中力がある様子見てとれます。

実際、馬も泳ぎも得意だったようです。『信長公記』に以下の内容があります。

【馬の技術】
不慮の事故で、弟・秀孝が殺害されてしまった時のこと。
信長は3里(約12㎞)の距離を一息に駆け付けました。往復合計6里を難なく乗りこなします。
一方、家来たちは、屈強な名馬でさえも片道の3里さえも駆けれず、馬も倒れる始末だったそう。

【泳ぎの技術】
あまが池というところで「大蛇がでた」との噂を聞きつけた時のこと。
確かめるために、池の水をかき出したものの、大蛇は見当たらず、信長自身が潜って調査します。
しかも時期は1月下旬。その時に脇差を口にくわえたまま潜水したというので、相当得意だったのでしょう。

さらに、『信長公記』では弓・鉄砲・兵法の稽古も欠かさず実施している記事が続きます。

市川大介めしよせられ御稽古
橋本一巴師匠をして鉄炮御稽古
平田三位不断被召寄兵法御稽古
鷹野等也

それぞれ市川大介、橋本一巴いっぱ、平田三位という師匠をつけ、絶えず稽古をしていました。
鷹狩も実施し、実戦的に学んでいたのでしょう。

槍の長さに注目:鋭い観察力と実行力

其折節竹鎗にてたたき合御覧じ
兎角鎗はみしかく候ては悪候はんと被仰候て
三間柄三間々中柄などにさせられ

・竹槍の試合を見て、短い槍が不利なことに気付く
槍を3間~3間半に変えさせた(約5.5m~6.4m)

同じころ、他の家では、もっと短い槍が使用されていました。

・越後・上杉家 :2間半(約4.5m)
・小田原・北条家:2間半(約4.5m)

織田家では最大約2mも長い槍を使用してました。

また、義父・斎藤道三との聖徳寺会見の帰り、
斎藤家より織田家の方が長い槍を使用していることを目にし、「息子どもが、必ずあの阿呆(信長)の門前に馬をつなぐ(家来になる)」であろうと述べたと言います。

ちなみに、この会見時の信長の装備は以下の通りでした。

・供の衆、700~800人
・槍は3間半で朱色。数は500本
鉄砲500挺

鉄砲1挺は50万円程度だったと言われているので、2億5000万円程。
それに投資する実行力が垣間見えます。

まとめ

以上、信長の青年時代を『信長公記』の記事を中心に紹介しました。

信長の「うつけ」ぶりは非常に有名ですが、実際は奇抜なファッションセンスに集約されていました。

長距離の初陣ながら軍を指揮し、

織田弾正忠家の嫡男として、青年時代は欠かさず鍛錬を続けた非常に真面目な人物でした。

特に悪行が見られるわけでもなく、人と関わり合いが少なかったわけでもなさそうなので、一般的な信長の「うつけ」者イメージとは異なったのではないでしょうか。


信長を有名にした桶狭間の戦いについても合わせて読んでください。

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