【中市場の戦い】織田信長が清州城下町を攻めた弔い合戦。背景や場所を解説

戦国時代

中市場の戦い(安食の戦いとも)は清州城の又代・坂井大善が守護の斯波義統を殺害したため、大義名分を得た信長が弔い合戦として清州城を攻めた戦いです。

この戦いは清州越え(江戸時代に実施した清州城の移設)のため場所があまり知られておらず、勘違いもしやすいです。

城下町で戦闘が起きたことは確実ですが、その場所について解説していきます。

また、戦いが勃発した背景についても解説します。

中市場の戦い(安食の戦い)はいつ起こったか?

  • 天文23年(1554)7月18日
  • 信長21歳のこと

中市場の戦いが起こったのは、村木砦の戦いでの勝利後の6か月後。

天文23年(1554)7月18日です。

信長が21歳、家督相続から2年3か月が経過したときのことです。

中市場の戦い(安食の戦い)勃発の背景

尾張国の支配体制の状況

中市場の戦いが起こった天文23年頃の尾張国の支配体制について確認します。

各国には通常、上位から次の職が配置されてます。

  1. 守護(主に国の治安・警備が仕事)
  2. 守護代(守護の家臣。守護の傍らに仕えて補佐する)
  3. 又代(又守護代の略。守護代の家臣で、在地で政務を取り仕切る)

尾張国においても全く同じ体制で、守護から又代まで清州城を居城にしていました。

しかし、力関係が逆転して又代・坂井大善が上位。

守護・斯波義統よしむねは本来もつべき実権が全くありません。

さらに、織田信長(織田弾正忠家)も相当力をもっていたため尾張国は内乱状態にありました。

清州城の又代・坂井大善が尾張守護・斯波義統を殺害

斯波義統は自身に実権がないことに大いに不満を感じていました。

そこで、守護代・織田彦五郎と又代・坂井大善の殺害を計画します。

しかし、逆に坂井大善に先手をうたれてしまい、殺害されるという事態に陥りました。

事件の経緯は以下の通りです。

天文23年(1554)7月12日。

義統の子・岩龍丸が守護の屈強な若侍たちとともに川遊びに出かけました。

清州城内にある守護邸に老人しかいなくなったことを確認した坂井大善は守護邸を取り囲みます。

守護・義統たちも必死に戦い、善戦するもついには屋敷に火を放って自害しました。

義統の子・岩龍丸が信長が保護し、大義名分を得る

川遊びに出かけていた岩龍丸は変事を聞いて、信長の那古野城へ逃げ込みました。

守護の遺児である岩龍丸を保護した信長にとっては敵対する坂井大善ら清州勢へ攻撃するための大義名分を得たことになります。

こうして中市場の戦いへ発展するのです。

中市場の戦い(安食の戦い)が起こったの場所は清州城下町の内部

中市場の戦いは現在の清州城(愛知県清須市朝日町城屋敷1-1)周辺で起こりました。

当時の清州城の南側の城下町内での戦いです。

『信長公記』をみると以下の順番で戦いが展開しています。

  1. 三王口さんのうぐち
  2. 乞食村あじきむら
  3. 誓願寺じょうがんじ

ここで現在も地名が残っているのは1番目の「三王口」のみです。

当時は「山王社さんのうしゃ」で現在の「日吉神社ひよしじんじゃ」です。

清州城より南へ約1㎞に位置しています。

山王社周辺に中市場という町があったことが知られており、戦いの名称の由来になりました。

(現在も近くに「西市場」や「北市場」という地名が残っています)

2番目の乞食村は「安食あじき村」や「玄海」とも呼ばれ、現在の清須市田中町周辺にありました。

中市場の戦いが安食の戦いと呼ばれるのはこのためです。

3番目の誓願寺はどこにあったか不明ですが、信長軍が南から北へ攻め、清州勢が後退していることからさらに清州城の本丸に近い位置にあったと想定されます。

地図を参考にしてください。

『清州町史』を参考に作成

中市場の戦いが起こった場所のポイントは地図にある通り、開戦場所が城下町内部だということです。

信長が最初からかなり攻め込んでいたことがわかります。

ちなみに、現在も名古屋市北区に成願寺があることから、名古屋市北区周辺で戦いが起きたと勘違いすることもありますが、別の場所なので注意が必要です。

↓現在の日吉神社

中市場の戦い(安食の戦い)は誰との戦いか?

信長方:柴田勝家 VS 清州方:河尻左馬丞・織田三位など

中市場の戦いは織田信長と坂井大善の戦いですが、直接は戦っていません。

信長方の総大将は柴田勝家です。

柴田勝家

柴田勝家は後に信長の重臣として第一線で活躍し続け、北陸方面軍までつとめた実力者です。

中市場の戦いのころは、まだ信長直属ではなく、弟・信勝の重臣(信勝派)でした。

しかし、この戦いでは信長方の総大将として出陣したのです。

『信長公記』の著者・太田牛一も勝家に従って参戦しています。

一方、坂井大善の清州方からは、河尻左馬丞・織田三位・原某・雑賀修理が出陣したと『信長公記』には記録されています。

いずれも坂井大善の重臣たちです。

【柴田勝家が参戦した理由の一説】

中市場の戦いのころ、信長と信勝は覇権争いをしており、柴田勝家は信勝の重臣でした。

つまり、信長のために出陣したのではないという説があります。

『愛知県史』には以下のように記載されています。

信勝派が信長のために弔い合戦に出たのではない。岩竜丸を獲得した信長を牽制し、弔い合戦をした実績を周囲に示して、信勝への求心力を保つ狙いであろう。

『愛知県史』第1章 第4節より

中市場の戦い(安食の戦い)の戦闘は?信長方の勝因は「槍の長さ」

  1. 柴田勝家軍と清州勢が山王口で激突
  2. 柴田勝家軍が安食村まで押し込む
  3. 柴田勝家軍が誓願寺前までさらに押し込む

清州勢の被害:30人程が討死

信長の勝因:槍の長さ(3間~3間半(約5.5m~6.4m)あった)

3章でも解説した通り、中市場の戦いは清州城下町の内部で開戦しました。

清州城外堀の内側にある山王社(現・日吉神社)で柴田軍と清州勢が最初に激突します。

当時は山王口周辺に中市場という町があり、戦いの名前の由来となっています。

清州勢は応戦しましたが、柴田軍に押し込まれてしまい、防ぎきれず後退しました。

つづいて応戦した場所は安食村(乞食村/玄海/現・清須市田中町付近)です。

しかし、ここでも清州勢は支えることができず、さらに後退を余儀なくされました。

清州勢は誓願寺前(現在では場所が不明)で防ぐことにしましたが、柴田軍はこれも突破します。

柴田軍の激しい攻撃に対して河尻左馬丞織田三位・雑賀修理・原某・八板・高北・古沢七郎左衛門・浅野久蔵といった清州勢の中心メンバーたちが奮戦の結果、討死しました。

総勢30人程討死したと『信長公記』には記録されています。

中市場の戦いで柴田軍が順調に勝利した勝因は「槍の長さ」にありました。

信長軍では通常よりも長い3間~3間半(約5.5m~6.4m)の槍を標準化していました。

当然柴田軍にも適用していたのでしょう。

清州勢を含めた一般的な槍の長さは2間半(4.5m)程で、1m以上長かったため、有利に戦いを進めました。

結果、信長方の勝利で、清州勢は有力家臣が多く討死したため、坂井大善は孤立して力を落としていきます。


信長が槍の長さを変更したのは16~18歳という青年のころでした。

つぎの記事を参考にしてください。(槍の長さに注目:鋭い観察力と実行力 参照)

中市場の戦い(安食の戦い)後、織田信長が清州城を乗っ取る

中市場の戦いに敗れた坂井大善は、有力な家臣が相次いで討死したため、一計を案じました。

叔父として常に信長に味方していた守山城主・織田信光に接近し、

織田彦五郎とともに守護代の地位につき、清州城に入城してもらおうとしたのです。

信長と信光の強力体制にヒビを入れて力を殺ぐことが坂井大善の狙いでした。

しかし、信光は表面では坂井大善に従ったフリをして、裏では信長に通じていました。

2人は逆に坂井大善の思惑を利用して清州城を乗っ取ってしまおうと考えます。

【信長と信光の約束】

  • 庄内川を境に尾張下郡の海東・海西・愛知・知多を分ける
  • 清州城と那古野城を交換する

信長の領有予定:海東・海西(北西/清州城)

信光の領有予定:愛知・知多(南投/那古野城)

天文23年(1554)4月20日。

坂井大善は信光の居城となった南櫓に挨拶にいこうとしたところで、身の危険を察しました。

そしてそのまま清州城を出奔して駿河まで逃れてしまいました。

坂井大善の出奔後、信光は守護代・織田彦五郎も攻撃し、腹を切らせて、守護の居城であった清州城の占領に成功します。

そして、約束通り、信光は信長に清州城を渡し、

信長は替わりに、自身の居城だった名古屋城を譲りました。

以降、信長の本拠は清州城となったのです。

まとめ

以上、中市場の戦い(安食の戦い)について解説しました。

ポイントは以下の6点です。

  1. 天文23年(1554)7月18日、信長21歳のときの戦い
  2. 又代・坂井大善が守護を殺害。
    信長が守護の遺児・岩龍丸を保護し、弔いの名目で攻撃
  3. 信長方の総大将は柴田勝家
  4. 戦いは清州城の城下町内部で繰り広げられた
  5. 結果は信長方の勝利
    →勝因は「槍の長さ」
  6. 信長は坂井大善を追い払い、清州城の入手に成功

戦いに勝利した織田信長は清州城を本拠に活動していくことになります。

清州城は、信長の若い頃のお城というイメージが強い(桶狭間の戦いでの出陣や徳川家康との清州同盟など)ですが、このようにして入手したのです。

敵対していた坂井大善を倒したことで、信長にとっての脅威が減少しましたが、まだまだ尾張統一はできず、弟・信勝との戦いへとつづいていきます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました