明治2年(1869)3月25日。現在の岩手県宮古湾で、箱館政府によるとんでもない発想の海戦が開始されます。
作戦名「アボルタージュ」。
日本語では「接舷」作戦。
箱館政府が、新政府軍最強の甲鉄艦を奪取して、箱館へ持ち帰ろうとした作戦です。
失敗に終わりますが、戊辰戦争で強烈な印象を残した戦いです。
この記事では宮古湾海戦を解説します。
【箱館政府の狙い】
ー敵艦奪取による蝦夷地の制海権回復
【新政府の狙い】
ー最強軍監を擁して箱館政府を攻撃
【結果】
ー箱館政府の作戦失敗
ー新政府軍に制海権を完全掌握され、戦力差が拡大
宮古湾海戦に至る背景を解説
宮古湾海戦に至った背景には、以下2点があります。
- 箱館政府側の海軍戦力が低下したこと
- 新政府の海軍戦力拡大し、北上を開始したこと
箱館政府はこの事実から制海権回復のため、宮古湾海戦へと臨む決意をします。
箱館政府の海軍戦力が低下 わずか4戦艦のみ
明治元年(1868)10月下旬の海軍軍艦は6隻でした。
【明治元年10月下旬時点の箱館政府軍監】
①開陽丸
②神速丸
③回天丸
④幡龍丸
⑤高雄丸(第二回天丸)
⑥千代田形丸
特に開陽丸は2590tもあり、日本最大の軍艦で、新政府に対して圧倒的優位性を誇っていました。
しかし、11月15日、その開陽丸が江差沖にて座礁して、救助に向かった神速丸と共に沈没してしまいます。
結果、4隻に減少し、大きく海軍力を低下。
かろうじて保っていた軍事バランスが崩れてしまいます。
【明治2年3月時点の箱館政府軍艦】
①回天丸
②幡龍丸
③高雄丸(第二回天丸)
④千代田形丸
新政府の海軍戦力が拡大 最強の甲鉄艦を取得
一方の新政府は、8隻の艦隊を組織します。
【明治2年3月時点の箱館政府軍艦】
①甲鉄艦
②春日丸
③陽春丸
④丁卯丸
⑤飛竜丸
⑥戊辰丸
⑦豊安丸
⑧晨風丸
特に甲鉄艦は開陽丸の戦闘力をはるかにしのぐ最新鋭の軍艦です。
甲鉄艦を新政府が手に入れたのは明治2年(1869)正月6日。
一時は中立を保ったアメリカより新政府に引き渡され、軍事バランスが完全に新政府へと傾きます。
この状況下で3月9日、新政府艦隊が箱館政府討伐のため、北上を開始します。
対する箱館政府側は、甲鉄艦を奪うという回天丸艦長の甲賀源吾の奇策で制海権の回復を図ることにしました。
宮古湾海戦の奇策 甲鉄艦を奪うアボルタージュ作戦とは
この甲鉄艦を奪う作戦名は「アボルタージュ」。
日本語で「接舷」作戦と言います。
箱館政府は補給のため停泊する新政府艦隊に奇襲をかけるため、宮古湾を目指します。
箱館政府は、この作戦に主力艦の回天丸、幡龍丸、高雄丸の3隻をあてました。
宮古湾では、星条旗をかかげてアメリカ船に扮した幡龍丸と高雄丸が甲鉄艦の両舷に接し、兵が飛び移って占拠する。
回天丸は外輪船で接舷には不向きなため、甲鉄艦以外の新政府艦隊をけん制する役目です。
占拠後に甲鉄艦を箱館港に連れ帰るという大胆不敵な作戦でした。
宮古湾海戦の参加メンバー
箱館政府の参加メンバー
【指揮官】
参加隊は三艦の海軍乗組員。
臨時として、彰義隊、神木隊、遊撃隊40数名が幡龍丸と高雄丸に乗船。
監察・軍監の役目として、回天丸には荒井、甲賀、土方が乗船。
また、土方のサポートとして、陸軍奉行添役の大嶋寅雄・相馬主計、添役介の野村利三郎も乗船しました。
この時の土方歳三のステータスは新選組副長を大きく超えて、陸軍№3の実力者です。
宮古湾では陸軍総督の立場で、生涯で唯一の海戦に臨みました。
↓土方歳三の役職についてまとめた記事です。こちらも参考にしてください。
新政府軍の参加メンバー
【指揮官】
海軍参謀 増田虎之助(佐賀藩士)
甲鉄艦将 中島四郎(長州藩士)
他艦船将 各人
新政府軍乗組員・東郷平八郎による甲賀源吾への称賛
「明治2年私は三等士官で、春日艦に乗組んでおりました。回天艦長甲賀源吾は賊ながら、60年後の今日に至るまで、私の嘆賞措く能はざる勇士である」(東郷平八郎元帥の回想記より)
戊辰戦争最大の奇策 宮古湾海戦の開戦
度重なるアクシデントの発生
明治2年(1869)3月23日、箱館政府は回天丸など3隻で箱館を出航。
しかし、不運にも暴風のため、久慈周辺で幡龍丸が遭難し、行方不明になります。
24日に付近の山田湾に入った回天丸と高雄丸は、仕方なく2隻のみで作戦決行します。
ところが、25日未明、さらに不運が続きます。
今度は高雄丸のエンジントラブルが発生し、回天丸単独での決行を余儀なくされました。
回天丸出撃
トラブル続出により当初の作戦は破算しましたが、
目標の甲鉄艦を前にチャンスを逃すわけにはいかず、回天丸は出撃を開始します。
回天丸は予定通り星条旗をなびかせてギリギリまで接近します。
目指すは甲鉄艦の左舷。
外輪が邪魔をして並行に接舷できないためです。
この時、『新選組始末記』によれば、甲鉄艦を発見した土方歳三は手をたたいて喜び、スピードをあげさせたとあります。
日の丸の旗に掲げ変えた回天丸は甲鉄艦が沈没しそうな程の激しさで大砲を放ちました。
「其勢ヒ恰モ雷撃ノ如ク鉄艦将ニ傾キ、覆没セント欲ス」
『島田魁日記』
しかし、いよいよ飛び移ろうという時。
またトラブルが発生します。
回天丸の甲板位置が甲鉄艦より3メートルも高かったのです。
この外輪の幅と高低差を見て、水没を恐れた兵士たちは敵艦に飛び移るのを躊躇しました。
アボルタージュ!
25日、朝5時20分。
「アボルタージュ!」
甲鉄艦側も射撃モードに突入しており、一刻を争うため、荒井郁之助と甲賀源吾が抜刀して叫びました。
最初に勇気を奮って飛び移ったのは、大塚浪次郎。
続いて6名が飛び移り、新政府軍に斬りかかりました。
【飛び移った猛者たち】
回天丸一等測量役 大塚浪次郎
陸軍奉行添役介/新選組 野村利三郎
軍監役 矢作沖磨
彰義隊 笠間金八郎
彰義隊 加藤作太郎
彰義隊 伊藤弥七(生還)
海兵 渡辺某(生還)
しかし、既に落ち着きを取り戻していた甲鉄艦側は1分間に180発撃てるガトリング機関砲や小銃で反撃を開始し、2名を除き戦死してしまいます。
わずか30分での終戦
新政府軍は甲鉄艦以外の軍艦からも大砲で応戦。ガトリング機関銃は回天丸にも向けられました。
マストで指揮していた甲賀源吾はこめかみに被弾して落命。荒井や土方も何とか難を逃れますが、作戦の失敗を認めて退却を決定。
終戦間際に高雄丸が到着するも、船足の遅い高雄丸は銃撃に合い、拿捕され、東京へ護送されました。
戦闘時間わずか30分。
箱館政府死傷者50人余。新政府軍死傷者30人余という大激戦でした。
幡龍丸は途中に回天と合流して箱館へ帰還しましたが、この大胆不敵な奇襲作戦の失敗により、箱館政府は軍艦を3隻に減少させます。
制海権の回復どころか、更に戦力差が拡大する結果となってしまいました。
まとめ
以上、戊辰戦争最大の奇策・宮古湾海戦を解説しました。
新政府軍との海軍力の差が広がったため、立案された作戦でしたが、
結果は失敗。
4隻しかなかった軍艦が3隻となり、さらに新政府が有利な状況となりました。
土方歳三は陸軍指揮官として初めての海戦に参戦しましたが、結果に地団太を踏んだと思われます。
宮古湾海戦以降、新政府軍は北上を続け、戦いの舞台は箱館へと移ることとなります。
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