1868年10月25日。
旧幕府軍は新政府軍より五稜郭を奪って入城しました。
次なる目標は新政府側の松前藩の居城・松前城。
旧幕府軍を率いるのは土方歳三。
実は、わずか1日で落城させるという神業を土方歳三は成し遂げています。
「まるでマンガ!?」
と思える伝説も生まれた攻略戦はどのような戦いだったのか解説します。
また、つづく江差や館城での松前藩兵掃討戦についてもあわせて解説します。
松前藩の立場
戦いをみる前に、松前藩の立場を整理したいと思います。
松前藩の立場は幕末の動乱の中で佐幕から新政府側へと変化しています。
【松前藩の立場変遷】
・松前藩は元々佐幕派
⇒将軍徳川家茂に抜擢された前藩主(12代)松前崇広は外様大名でありながら老中を務めた
・慶応4年(1868)7月、尊攘派がクーデター
⇒新政府に寝返り
寝返ってからの立場は一貫して新政府側です。
函館の旧幕府側は老中を務めた過去の経緯から、
「松前藩とは手を結べるのでは?」
と考え松前藩に使者を送りました。
しかし、無残にも使者は斬殺されてしまいます。
松前藩は断固として和平に応じませんでした。
すぐに新政府軍から援軍があるとの目測もあったのでしょう。
結果、旧幕府軍は松前藩討伐を決定。
主将には土方歳三がつくこととなりました。
土方歳三率いる松前藩討伐軍の構成
松前藩討伐軍として出陣したのは約800名。
軍の構成は以下の通りです。
【先鋒】
彰義隊:隊長 池田大隅
【本隊】
額兵隊:隊長 星恂太郎
陸軍隊:隊長 春日左衛門
砲兵隊:隊長 関広右衛門
工兵隊:隊長 吉沢勇四郎
守衛新選組
【後軍】
衝鋒隊:隊長 古屋佐久左衛門
このように五稜郭入城時とほぼ同じ陸軍隊が中心でした。
また、回天丸と幡龍丸も出航しました。
↓旧幕府軍の蝦夷地上陸から五稜郭入城までの詳細は以下にまとめているので、こちらもぜひ参考にしてください。
土方歳三率いる松前藩討伐軍の進軍ルート
明治元年(1868)10月28日。
土方歳三は五稜郭を出陣し、次のルートで松前城まで進軍しました。
11/1 知内
11/4 福島
11/5 荒谷⇒松前城攻撃
途中、松前藩の反撃に合いますが、土方歳三の的確な指示により討伐軍は大きな犠牲を出さずに進軍できました。
それぞれの戦いをみていきます。
知内の戦い
11月1日。
討伐軍(土方軍)は知内で宿陣していました。
この時、闇夜にまぎれて、小舟にのる松前藩士の一団がいました。
渡辺薬々率いる50名です。
渡辺らは討伐軍の背後に上陸し、奇襲をかける作戦に出たのです。
この奇襲により、討伐軍は一時大混乱におちいってしまいました。
しかし、
土方歳三は敵のもつ松明の数を確認し、小勢だと瞬時に察知します。
「松明を標的に狙撃せよ!」
と命じ、渡辺隊の多くを射殺。
生き残った松前藩士は一気に山へ逃げ去り、土方歳三は勝利を得たのです。
知内での戦いのあとも、松前藩士たちは討伐軍の侵攻を阻止しようと、福島や荒谷など峻険な地形を利用して待ち伏せ攻撃をしかけます。
しかし、土方歳三は的確な指示により全て勝利をおさめます。
土方歳三の神業 わずか1日で落城させた松前城攻略戦
明治元年(1868)11月5日早朝。
土方歳三はついに松前城下まで進軍しました。
同時に、福島に停泊していた回天丸と幡龍丸も出発します。
松前藩はこれ以上近づかれないように激しい砲弾と銃弾をあびせます。
これに対して、土方歳三は荒谷で兵を山側と海側の二手に分散させ進撃。
松前藩兵は撤退し、籠城作戦にでました。
松前城の攻撃開始
敵が退いたあと、討伐軍は松前城の東側の高台に位置する法華寺をおさえて、敵から奪った大砲で砲撃を開始。
南側に位置する大手門(表門)には海から回天丸が砲撃。
(幡龍丸は間に合わず・・・)
同時に陸からは額兵隊と彰義隊は城内の侵入をはかりました。
松前藩兵 必死の抵抗
大手門(表門)、搦手(裏門)ともに松前藩の必死の抵抗があり、討伐軍は容易に城内への突入ができずにいました。
特に大手門(大手)には門の内側に大砲を設置しており、門をひらいては攻撃。
終わるとすぐに門を閉じるという素早い所作による作戦を実行しました。
この作戦になすすべ無く、土方歳三は閉口してしまいます。
旧幕府軍の伝説的奇策により大手門を突破
この時、土方歳三率いる旧幕府軍はマンガのような奇策を実行したという伝説があります。
【作戦】
- 10名程の特殊部隊を編制
- 松前藩兵が閉門している間に門の脇へ待機
- 開門と同時に銃を発射
- 一気に城内へ突入
松前藩兵の大砲 VS 討伐軍の小銃
捨て身の突撃行動でした。
作戦は見事に成功。
なんとか大砲を鎮静化した討伐軍は大手門(表門)を突破して城内に侵入しました。
土方歳三の松前城を弱点をついた作戦
残念ながら、この奇策を土方歳三が考えたかは史実としては不明です。
というのも、搦手(裏門)に出陣していたからです。
土方歳三は大手門(表門)に釘付けとなった状況を目にしながらも、打開策を考えていました。
実は、松前城は財政難から陣屋を無理やり城にリフォームした城で、財政難のため、防御は南側が中心で、北側に手が回っていことがわかりました。
そこで、土方歳三は陸軍隊と守衛新選組を率いて、搦手(裏門)へ出陣していきました。
搦手の討伐軍は、はしごを使って石垣をのぼり、城内へ一気にながれこみました。
総督陸軍隊守衛新選組ヲ率テ城裏ニ廻リ楷子(梯子)ヲ以テ石檣(石垣)ヲ登リ城中ヘ潜ミ入、敵軍未タ不知、我軍大喝シテ銃ヲ放ツ、敵兵大ニ驚キ急ニシテ防御スル不能、城ヲ走シテ市中ニ放火シ遁走ス
『島田魁日記』
松前藩兵は大声で銃を乱射して迫ってくる討伐軍にとても驚きます。
大手門も突破されてしまった松前藩兵は防御がかなわず城から逃げていったのでした。
こうしてわずか1日にして、討伐軍は松前藩の本拠・松前城を制圧しました。
松前藩討伐軍の追撃戦
戦いに敗れた松前藩兵たちは要塞のおかれた江差と未完の新城・館城に落ち延びていきました。
明治元年(1868)11月10日。
松前藩兵掃討のため、討伐軍はあらためて進軍を開始します。
館城への追撃戦
さて、館城へは函館・五稜郭より松岡四郎次郎率いる一連隊が派遣されました。
兵力は約200名でした。
11月12日、一連隊は稲倉石の関で松前藩兵と衝突し、死者2名の犠牲を出しますが、勝利をおさめ15日には館城の攻撃を開始します。
12日 稲倉石で衝突
14日 鶉村で松前藩の奇襲を受けるも追い返す
15日 館城への攻撃開始
館城には約200名の松前藩兵が籠城していました。
兵力は互角です。
ただし、
館城には武器弾薬が豊富だったため、松前藩兵はかなり激しい抵抗をしました。
一方の旧幕府軍は山道のために大砲をもってくることができず、城を攻めあぐねてしまいます。
しばらく膠着状態がつづいたのちに、一連隊の伊那誠一と越智一朔が銃弾を潜り抜けて城内への侵入に成功しました。
これに勢いをつけた一連隊隊士が一気に城内へ突入し、勝利を手にしました。
江差への追撃戦
一方、江差へは土方歳三が進軍しました。
大滝山のふもとで、松前藩兵からのすさまじい銃撃と砲撃を受けました。
土方歳三はあわてずに進軍を止めます。
その瞬間、松前藩兵の背後に旧幕府艦隊が現れ、あっけなく江差を占拠してしまいました。
こうして、旧幕府軍は上陸からわずか1か月ほどで蝦夷地全島を制圧したのでした。
開陽丸の沈没
しかし、この時衝撃的な事故が起こってしまいました。
なんと、旧幕府艦隊の自慢であり、新政府軍を恐れさせた開陽丸が荒波のために座礁してしまったのです。
さらに、助けようと近づいた神速丸まで座礁したのです。
必死の救助もむなしく、沈没を待つしかありませんでした。
かろうじて、保っていた新政府軍との軍事バランスが大きく揺らぐ結果となってしまいました。
実は、開陽は陸軍の応援のため11月14日に榎本武揚を乗せて函館を出航したのですが、戦況的には応援は全く不要でした。
蝦夷地上陸以来、活躍するのは陸軍ばかりで、海軍にも活躍の場をもうけようとしたのです。
後年、榎本武揚自身も認めています。
いずれにしてもせっかく蝦夷地制圧を果たしましたが、旧幕府軍には一気に不安が広がってしまいました。
「全軍の海陸軍之を聞き、一駭一嘆胆を破り胆を寒うし切歯扼腕涙を堕す斗なり」
『南柯紀行』
榎本武揚も土方歳三も沈みゆく開陽丸を目の前に、涙したと伝わります。
江差町ではその涙した場所も伝わっており、大切に保管されています。
↓土方歳三 嘆きの松 | 北海道江差町の観光情報ポータルサイト (esashi.town)
まとめ
以上、土方歳三率いる旧幕府軍の神業的な松前城攻略と松前藩兵掃討について解説しました。
・明治元年(1868)10月28日に五稜郭を出陣
・11月5日早朝 旧幕府軍が松前城を攻撃開始
―高台を占拠し、砲撃
―海からは回天丸が砲撃
・土方歳三が搦手(裏門)で決死の突撃作戦を実行し、戦況打破
・わずか1日で松前城は落城
松前城及び松前藩兵掃討戦は土方歳三の近代軍人としての才能があふれでたことで実現したのです。
わずか1日で松前城を落城させるなど順調に蝦夷地全島制圧が実現しました。
しかし・・
その同日、なんと旧幕府艦隊の旗艦・開陽丸が沈没。
旧幕府軍に暗雲たちこめ、全員が涙します。
松前城及び松前藩討伐は理想郷の実現と将来不安が同時に起きたとてもドラマティックな出来事でした。
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