2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の主人公・蔦谷重三郎へ財産の半分を没収や様々な弾圧・妨害をする松平定信。
天明の飢饉や天明の打ちこわしなどで弱っていた社会を立て直すため、寛政の改革を実行した名君として有名ですね。
しかし、意外とその出生は知られていないので、この記事でその高貴な血筋を紹介します。
松平定信の家系図 将軍候補の御三卿・田安家で生まれる
松平定信は宝暦8年(1758)12月26日に御三卿の一つ、田安家に生まれました。
田安家の子ということは将軍家に跡継ぎがいない場合の将軍候補の資格をもちます。
(田安家は御三卿の中でもっとも序列が高い家です)
祖父は江戸幕府8代将軍の徳川吉宗。
父は吉宗の2男・田安宗武、母は側室・とや です。
幼名は賢丸と名づけられました。
松平定信の祖父・徳川吉宗
7代将軍・徳川家継が8歳で死去したことで、2代将軍家忠の直系が絶え、御三家(尾張、紀伊、水戸藩)から将軍を迎える必要がでました。
そこで紀伊藩から吉宗が迎えられ、8代将軍となったのです。
吉宗は家康時代の復古を掲げて「享保の改革」を推進したことで有名です。
のちに松平定信が進めた寛政の改革では似た政策があるので、祖父を参考にして改革を実行したことは明白です。
松平定信の父・田安宗武
8代将軍・吉宗の二男として生まれた宗武は非常に英明でした。
さらには兄の家重に身体的な障害があったため、周囲の人々から時期将軍への就任を期待されていました。
しかし、宗武自身もその気になり、家重の欠点を列挙することで、吉宗から大いに咎められ、3年間にわたって謹慎処分をうけた人物です。
松平定信の母・とや
定信の母・とやの実家は近衛家に仕えた山村氏です。
宗武の正室が近衛家の出身であったため、とやは田安家に仕えたようです。
その過程で宗武の寵愛を受けたものと思われます。
御三卿についての詳細は下記の記事を参考にしてください。
松平定信が白河藩への養子に決定 将軍候補者からはずれる
家系図の通り、吉宗の直系という高貴な血脈で、かつ田安家という序列の高い御三卿に生まれました。
父・宗武の死後に田安家を相続したのは5男治察でした。
6男の定国は松山藩に養子に出ていたため、7男定信だけが田安家に残っていました。
治察は病弱で、子どもがいなかったため、定信は「控え」として田安家にとって重要なポジションにいました。
ところが、安永3年(1774)3月、定信に白河藩へ養子に行くようにとの幕命がでました。
治察は万が一の場合を理由に断りますが、押し切られた形で正式決定をうけてしまいます。
その結果、松平定信は田安家を出ることとなり、将軍候補の道が断たれてしまいました。
松平定信が養子となった2つの思惑
定信はずし ①老中・田沼意次と一橋治済の思惑
一橋家は将軍を輩出したいという気持ちの強い家でした。
生まれた順で序列2位とされ、田安家に負けるなという思いが初代から非常に強く引き継がれてきたのです。
その一橋家の思いを実行した人物が一橋治済です。
当時絶大な権勢を誇っていた老中・田沼意次と図って治済は「定信はずし」と「嫡男・家斉の将軍擁立」を目指しました。
田沼意次の正室が一橋家家老の娘であり、弟の意誠が一橋家家老だったことで両者の結びつきが強かったと考えられています。
都合の良いことに、白河藩主・松平定邦が家格を上げたいと考えていました。
- 田安家の若君を養子にすることで家格上昇を実現できると考える松平定邦
- 政敵となりうる定信をはずしたい田沼意次
- 家斉将軍擁立のために定信をはずしたい一橋治済
三者の思惑が見事に合致し、定信の白河藩への養子送りが決定されたのです。
定信はずし ②10代将軍・家治の恨み
忘れてはいけないことが、10代将軍・家治の気持ちです。
定信の父・宗武は家重(家治の父)を侮ったという過去がありました。
すなわち、家治からすると田安家は「父を馬鹿にした家で、しかも謹慎させられた家」という恨みのイメージが当然にあったと思われます。
いかに、田沼意次と一橋治済が強力に動いたとしても将軍を無視して事を進めることはできないため、家治も1枚かんでいたことでしょう。
まとめ
以上、松平定信の出生を解説しました。
歴史にもしもはありませんが、少しでも歯車が違えば、定信は将軍になっていたかもしれません。
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