家康の従兄弟・石川家成。徳川四天王 酒井忠次と徳川家を支えた武将

徳川家康

徳川家康の忠臣でイメージする人物は徳川四天王ですね!

石川家成を忘れてはいけません!

家康の従兄弟で、徳川四天王・酒井忠次と同等の評価を受け桶狭間の戦いから軍を指揮していた忠臣です。

また、『どうする家康』で松重豊さん演じる石川数正の叔父でもあります。

石川数正 | 登場人物 | 大河ドラマ「どうする家康」 – NHK

今回は、一般にはあまり有名ではないものの、徳川家の中核として活躍した石川家成について解説します!

徳川家康の従兄弟・石川家成の出自

石川氏は源氏の英雄・八幡太郎源義家が起源とされています。

義家の孫、義基よしもとが河内国石川郡を領有していたことから石川氏を
名乗るようになりました。

時代は下り、鎌倉時代末期に、石川義忠が下野国小山(現・栃木県)に
住居を移し、石川政康の時に三河国に移ったと伝わります。
政康の曽祖父から父までは「小山」氏を名乗っていたようですが、
三河国に移ったことから「石川」氏に復姓しました。

そして、徳川家康の祖父と父にも仕えた父・石川清兼

清兼の妻は刈谷の水野忠政の娘(妙西尼)です。

水野忠政の娘には、徳川家康の母、於大の方もいます。

すなわち、家康と石川家成は従兄弟という関係になります。

家成は天正3年生まれ、家康は天正11年生まれなので、8歳差の従兄弟です。

ちなみに名前に「家」が入っているのは、家康から偏諱を与えられたと思われ、
二人の関係の強さを表しています。


↓於大の方、家康の幼少期についてはこちらを参考にしてください!

徳川四天王・酒井忠次に並ぶ実力者 石川家成

先述の通り、家康の従兄弟である家成は、早くから軍団を率いる実力者でした。

【家成の主な戦歴】
・永禄元年(1558年)寺部城攻め(家康の初陣) ⇒ 先鋒
・永禄3年(1560年)丸根砦攻め(桶狭間の戦い) ⇒ 全軍を指揮
・永禄4年(1561年)石ヶ瀬川の戦い(織田方との戦い) ⇒ 先鋒
・永禄4年(1561年)長沢城攻め ⇒  先鋒
・永禄6年(1563年)三河一向一揆 ⇒ 一向宗を改め、家康へ味方

その他、東三河平定戦に参加。山中城を守り、今川氏真と対峙ています。

家康の初陣から先鋒として戦い、丸根砦攻め(桶狭間の戦いの前哨戦)の際には、
全軍の指揮権を任されています。
この時、軍を指揮したのは、後に徳川四天王と呼ばれる酒井忠次と家成の二人だけでした。
相当な地位だったことが窺えます。

また、石川氏は古くから「本願寺(浄土真宗・一向宗)」と関わりが深く、
家成は一向宗徒でした。
ですが、永禄6年の三河一向一揆では、一族の多くが反家康の立場をとりますが、
家成自身は改宗してまで家康に味方しました。
そのため、家康の元に戻った一族たちも多かったと伝わっています。


桶狭間の戦いについての詳細はこちらの記事を参考にしてください。

西三河衆の旗頭に任命された石川家成

三河一向一揆を乗り越えた家康は三河統一のため、
永禄7年(1564年)4月より東三河平定作戦を再開しました。

永禄8年(1565年)には東三河の今川方の拠点・吉田城を開城させ、
酒井忠次を城代に抜擢します。

↓今川方の拠点だった吉田城

三河一国を平定した家康は領国経営の維持と更なる領土拡大を狙い
「三備」という家臣を3つの軍団に分ける軍制改革を実施します。

①旗頭・酒井忠次組(東三河衆)
旗頭・石川家成組(西三河衆)
③家康直下の旗本(旗本先手役・馬廻衆)

この改革で家成は西三河をまとめる旗頭に任命されます。

ここに石川家成は名実ともに徳川家の家臣団トップとなりました。

↓「三備」の詳細についてはこちらをご覧ください。

遠江国・掛川城主に任命された石川家成

家康の遠江国侵攻

軍制を整えた家康は本格的に遠江侵攻を開始します。

永禄11年(1568年)の武田信玄との同盟がその象徴です。

↑甲斐国・武田信玄

『三河物語』では
「家康ハ遠江ヲ河切に取給え。我ハ駿河ヲ取ント」(「家康は遠江を大井川までとり、駿河は私がとろう」)との申し合わせがあったと記しています。

事実、永禄11年(1568年)12月、駿河を攻められた今川氏真は遠江国の掛川城へ退去しています。

一方の家康も遠江国へ侵攻を開始し、同年12月18日には引馬城(浜松城)に入り、信玄からの依頼もあり27日に掛川城の今川氏真を攻撃します。

掛川城開城

この掛川城攻撃に、石川家成は先鋒として参戦します。

翌永禄12年(1569年)正月17日に改めて掛川城を攻撃します。

今川氏真は奮戦しますが、遂に5月15日に和議を申し出て開城に至りました。

家康は受け取った掛川城を石川家成に守らせることを決定します。

↓掛川城

遠江国の重要拠点・掛川城

ここで改めて、掛川城の位置づけを確認します。

①駿河国との境界を守る重要拠点
②不安定な遠江国を東から抑える重要拠点

地図でもわかるとおり、掛川城は遠江国の最東に位置し、駿河国と接しています。

実は、掛川城開城の少し前、武田の将である秋山信友が同盟時の約束を破って遠江国に侵攻していました。激怒した家康は猛抗議をし、信玄は陳謝しています。

同盟関係にあるとはいえ、武田から攻められた場合の守りとして非常に重要な拠点でした。(翌年には同盟解消します)

また、遠江国は侵攻を始めたばかりで不安定な状態です。
そのような時に掛川城が敵方へ寝返ると遠江国統一どころではなくなります。

以上のように遠江国において重要拠点である掛川城を守るには並大抵の人物には任せられません。

掛川城を任せられる人物は信頼も実力もある石川家成しかあり得なかったのです。

これだけでも家成の評価が非常に高かったことがわかりますね。

隠居から再登板をする実力者 石川家成

先手役の将として各地で転戦

掛川城を守ることとなった家成は、西三河の旗頭の役を甥の石川数正に譲り、自身は先手役の将になりました。

元亀元年(1570年)9月、織田信長と本願寺が本格的に争いを開始した際、

援軍として石川家成は先鋒として近江国へ出発。六角義賢(承禎)と戦います。

元亀3年(1572年)10月、武田信玄が遠江国に侵攻を始めた際、周辺領主が武田方へなびく中、近くの城へ夜襲をかける等の活躍を見せます。

同年12月の三方ヶ原の戦いでは掛川城を守っていたため参戦はできませんでしたが、国境を守る重要な役割を果たしていたと言えます。

隠居と嫡男・康通の活躍

天正8年(1580年)、47歳の時、家成は家督を嫡男・康通に譲り隠居します。

↑家督を継いだ嫡男・石川康通

天正18年(1590年)、家康が関東へ入国する際に、康通は上総国・成戸2万石の将となります。

同時に、家成も隠居料として伊豆国梅縄5千石を与えられました。

↓成戸(成東城)

康通も同じく家康からの信任は厚く、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・平岩親吉と共に5組の隊長に任命されています。

外様の領主たちをまとめ上げると共に、家康が京都・伏見に行く際は交替で家康を守るという役割でした。

また、関ケ原の戦いでも福島正則らと共に清州城を守るなど活躍をし、大垣城5万石の大名・初代大垣藩藩主へと出世します。

しかし、慶長12年(1607年)7月26日に死去します。

2代・大垣藩主へ

康通には石川忠義という長男がいましたが、

この時11歳という年少だったため、家成に再登板が決定されます。

家成は住まいを大垣城へ移し、再び石川家の家政を沙汰するようになりました。

しかし、わずか2年後…慶長14年(1609年)10月29日に家成は死亡します。

享年76歳でした。

その後の大垣藩は家成の孫で大久保忠隣の次男でもある忠総ただふさが3代大垣藩として継ぐこととなりました。

まとめ

以上、徳川家康の従兄弟であり、信任が非常に厚かった石川家成について紹介しました。

主な活躍を改めてまとめました。

①家康の初陣から先鋒として活躍
②桶狭間の戦いでは全軍を指揮
③西三河の旗頭に就任 酒井忠次と並ぶ家臣団トップになる
④遠江国の重要拠点・掛川城の守将に
⑤隠居後、2代大垣藩主に任命

徳川家草創期から支え続けた石川家成がいたからこそ、家康の躍進があったのは間違いありません。

また、家成を知らずして徳川家康を理解することは難しいですね。

今後、更に注目されることを楽しみにしています!

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