徳川四天王・本多忠勝。無傷の猛将の出身と家系図を解説!

徳川家康

本多忠勝と言えば、

生涯57度の合戦でかすり傷一つ負わなかった猛将として有名です。

本多忠勝

武田氏、織田信長、豊臣秀吉ら錚々たる人物から高い評価を受け、

「徳川四天王」にも選出されます。

大河ドラマ『どうする家康』でも山田裕貴さんが演じ、今まで以上に注目を浴びた武将です!

本多忠勝 | 登場人物 | 大河ドラマ「どうする家康」 – NHK

しかし、彼の親や出身地についてはあまり知られていないように思います。

また、「本多家」は忠勝の他にも

同時代に家康に仕えた重臣が多くいて非常にややこしい…

・家康の側近
本多正信・正純親子

・日本一短い手紙で有名な本多重次 等

そこで今回は、忠勝の戦歴ではなく、出身や家系図など周辺部を紹介します!

本多忠勝の出身

洞村に誕生する

天正17年(1548年)、額田郡洞村ぬかたぐんほらむら(岡崎市洞町)に忠勝は誕生します。

一説には蔵前村(岡崎市西蔵前町)に誕生後、洞村へ移住したとも伝わります。

幼名は鍋之助

通称は平八郎

「徳川四天王」榊原康政とは同い年になります。

↓榊原康政も参考にご覧ください

徳川四天王・榊原康政。意外と知らない初陣と旗本先手役の抜擢を解説!
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「本多」を名乗るきっかけ

忠勝からかなり遡ってしまいますが、

そもそも「本多」と名乗ったのは藤原助秀という人物でした。

『藩翰譜』 には以下の記述があります。

中務少輔藤原忠勝は九条右大臣師輔公十二代の孫、藤原助秀が後胤なり

※中務少輔藤原忠勝=本多忠勝

この助秀が豊後国に下った際に、「本多」という場所に住んだので

「 本多」 を名乗るようになったようです。

さらに、助秀の子・助定が室町幕府初代将軍・足利尊氏に仕え、

尾張国横根・粟飯原の2郷を領有します。

助定から数えて6代目の助時が三河国に来て、定住することになりました。

忠勝の祖父と父

洞村に生まれた忠勝は不幸にも祖父・父ともに戦で亡くしています。

後の忠勝に劣らず、猛将ぶりを発揮しています。

【祖父:本多平八郎忠豊ただとよ
・享禄2年(1529年) 主君・松平清康(家康の祖父)の岩崎城(愛知県日進市)攻撃に従軍

・享禄3年(1530年) 清康の宇利城(愛知県新城市)攻撃に従軍
⇒清康に迫りくる敵を追い払う奮闘

・清康の死後、息子の松平広忠(家康の父)に従う

・天文14年(1545年) 主君・広忠と織田信秀(信長の父)の安祥城(愛知県安城市)攻防に従軍
⇒広忠の窮地に、広忠の馬印 ※ を奪い取る
⇒敵を欺くことに成功するも、討死

※馬印

【父:本多忠高ただたか
・天文17年(1548年) 
松平広忠・今川義元連合軍 対 織田信秀の小豆坂の戦いに従軍

・天文18年(1549年)3月 主君・広忠が暗殺される

・天文18年(1549年) 今川氏の安祥城攻めに従軍
⇒織田信広(織田信長の長兄)を攻撃
⇒討死

忠勝を養育した叔父・本多忠真

2歳で父と死別した忠勝は、

叔父の本多忠真ただざねに養育されました。

忠真は父・忠高の弟でした。

甥を引き取った忠真は

武芸を徹底的に教え込みます。

忠勝の初陣やその後の戦いでサポートをしていきます。

忠勝と忠真のこんなエピソードがあり、紹介します。

永禄4年(1561年)、今川氏真が三河長沢に侵入した時のこと、

忠真から15歳の忠勝に「平八郎、敵の首をとれ!」と促した。

すると、「我なんぞ人の力を借りて、武功をたてんや、とてすなわち敵軍に馳入り」

初めて首級を上げたと言います。

・自力で敵を打取る強気な忠勝
・甥を思いやる忠真

2人の性格が窺えるエピソードですね。

しかし、元亀3年(1572年)12月22日の

家康三大危機の一つで武田信玄に惨敗する「三方ヶ原の戦い」

忠真は戦死します。

戦いぶりはすさまじく、

「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、刀一本で

迫りくる武田軍へ切り込んだと伝わっています。

忠真40歳、忠勝25歳のことでした。

↓本多忠真の碑

大河ドラマ『どうする家康』でも忠真は登場するので、要チェックですね。

本多忠真 | 登場人物 | 大河ドラマ「どうする家康」 – NHK

本多忠勝の本多家と5つの家系

5つの本多家

本多家の家系は5つに分かれます。

以下の通りです。

大きく定通系(①~③)と定正系(④・⑤)の2系統に分かれる。

①洞村の平八郎家(岡崎市洞町)
ex.)本多平八郎忠勝

②伊那郷の彦八郎家(豊川市伊奈町)
ex.)本多縫殿助ぬいのすけ忠次…伊奈城主

③大平村の作左衛門家(岡崎市大平町)
ex.)本多作左衛門重次
…日本一短い手紙で有名

④土井村の彦三郎家(岡崎市土井町)
ex.)本多豊後守広孝
…酒井忠次に並ぶ別格の家臣。土井城主。

⑤西城村の弥八郎家(安城市小川町)
ex.)本多佐渡守正信
…三河一向一揆で裏切るも、復帰後は家康の右腕となる

いずれも同じ「本多」姓ですが、別家系です。

後年、文治派である本多正信に対して

「同じ本多一族でもあいつとは全く無関係だ」と忠勝が言い放ったとの逸話が残っています。

地理的にも以下の通り、離れており、

同族意識は無かったものと思われます。

【本多家の地盤地域】

現在の岡崎中心部(①と③)

・現在の岡崎南西部(④と⑤)

・現在の豊川伊奈町(②)

コラム:忠勝の家族

忠勝の長女は有名です。

小松姫の名で知られ、

真田信之の妻となる女性です。

ちなみに真田信之は大阪夏の陣で家康を追い詰める真田信繁(通称・真田幸村)の兄です。

↑忠勝の長女・小松姫

また、忠勝の妹、栄子姫という女性も有名です。

豊臣政権下で石田三成と同様、力を発揮した

長塚正家の正室となった女性です。

まとめ

以上、戦国時代で各方面から猛将として高評価を受けた本多忠勝について紹介しました。

しかし、今回は目線を変えて「戦い」ではなく、

その周辺・家族についてまとめました。

本多家は5つの流れに分かれており

系図としては関連がありますが、同族意識は希薄だったと思われます。

次回以降では、本多忠勝が実際にどのような戦いをして、どのような評価を受けたのか

猛将ぶりを紹介したいと思います!

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