2024年になり土方歳三の注目がとても高まっています。4月に公開された劇場版名探偵コナン『100万ドルの五稜星』では北海道・函館を舞台に土方にまつわる日本刀がテーマとなっています。
土方その人だけではなく所有していた刀までもが注目されています。
そこで今回は刀の由緒や土方歳三とのエピソードを紹介します。
【土方所有と伝わる4本の刀】
①和泉守兼定
②堀川国広
③越前康継
④大和守源秀国
これらの刀は、どれもが格式高く、名刀と呼ぶにふさわしい刀で土方の地位の高さをうかがうことができます。
刀を知ることで土方歳三のことをより深く知ることができます!
土方歳三の文化的な顔、『豊玉発句集』の記事も参考にしてください↓
土方歳三の日本刀①:『和泉守兼定』~戦国時代からの名匠一族~
1本目は土方歳三が所有していた刀で一番有名な和泉守兼定を紹介します。
刀工 :十一代会津兼定
時期 :①文久3年(1863年)頃
②慶応3年(1867年)※現存
サイズ:①2尺8寸(約84.8㎝)
②2尺3寸1分6厘(約70.2㎝)※現存
特徴 :反りが浅く、直刃。身幅、重ねは頃合。刀身は柾目で美しい。
ちなみに基本的に刀の名称は刀鍛冶の名前で呼ばれます。また、刀鍛冶の名前は世襲制です。
(現代の歌舞伎役者と同じイメージです)
十一代会津兼定は「和泉守兼定」と称していたので、刀も同じ名前で呼ばれています。
後ほど紹介しますが、土方歳三所有が認められる和泉守兼定は2本ありました。
刀工は十一代会津兼定
土方歳三の和泉守兼定を作刀したのは、十一代会津兼定です。
【十一代会津兼定の略歴】
・天保8年(1837年):会津城下にて誕生
・嘉永7年(1854年):十代兼定の代作を残す
・文久3年(1863年):和泉守を受領
土方歳三より2歳年下で、早くから注目を受けて活躍した名匠です。
そして、文久3年(1863年)12月4日には歴代兼定で唯一和泉守を受領するまでに至っています。
ちなみに土方歳三は同年に新選組を発足させ、京都市中見回りに勤しむ日々を送っています。
また、意外に思うかもしれませんが、十一代会津兼定は戦にも出陣しています。
文久4年(1864年)7月の禁門の変では御所警備を務めており、その後の会津戦争では籠城戦も経験しています。
新選組も同じ戦に出陣しているので、面識があったかもしれません。
会津藩主・松平容保が期待を込めて土方歳三に与える
さて、和泉守兼定ほどの名刀どのようなルートで土方歳三が所有することになったのでしょうか?
ルートは当時の会津藩主・松平容保が土方歳三に今後の働きを期待して与えたと思われます。
【会津藩主・松平容保が関わる理由】
①和泉守兼定は会津ゆかりの名刀
②会津藩は新選組を管轄する立場
①は十一代会津兼定が会津出身のため、会津藩との関わりが深い刀です。
②はご存知の方が多いと思います。
新選組の前身である壬生浪士組は、文久3年(1863年)3月15日に会津藩が預かる(=管轄する)ことで発足します。同年8月には「新選組」となります。
その新選組副長を務めることになった土方への期待から松平容保は会津が誇る名刀を与えたと思われます。
会津藩主・松平容保が見た新選組の腕前
実は、松平容保と土方歳三へにはもっと深い関係性があります。
文久3年(1863年)4月16日のことです。
発足間もない新選組が会津藩の本陣に急遽呼ばれて武術を披露することになりました。(この時はまだ壬生浪士組)
会津藩としては「本当に役に立つのか・・・?」という疑念もあったことでしょう。
隊士たちは剣術4試合、棒術、柔術を披露します。
そのトップバッターが土方歳三×藤堂平助の剣術試合でした。
その後の披露でも松平容保をはじめ、会津藩士たちを大いに満足させ、隊士たちは厚くもてなしをうけています。
松平容保が新選組の剣技を見た最初の人物。
それが土方歳三であり、目に焼き付いていたものと思われます。
さらにはその土方が副長を務めると知り、期待が膨らんでいったのだと想像できます。
土方歳三が所有した和泉守兼定は2本存在
土方の和泉守兼定は2本の存在が確認されています。
1本は、土方の生家、「土方歳三資料館」に現存しています。
歳三の生家 土方歳三資料館|東京都日野市 (hijikata-toshizo.jp)
【現存する和泉守兼定】
・「慶応三年二月 和泉守兼定」の銘
→慶応3年は1867年
・サイズ:2尺3寸1分6厘(約70.2㎝)
もう1本は、文久3年(1863年)10月20日、
土方の義兄であり、新選組後援者の佐藤彦五郎へ近藤勇が送った手紙の中で確認されています。
【手紙の中の和泉守兼定】
・「土方氏も無事(に)罷りあり候。ことに刀は和泉守兼定二尺八寸、脇差一尺九寸五分堀川国広」
・サイズ:2尺8寸(約84.8㎝)
・現存する和泉守兼定より4年程前のこと
土方歳三の激しい戦いを物語る和泉守兼定
さて、現存する和泉守兼定からは土方がどのような戦いをしてきていたのか読み取ることができます。
これは土方の子孫であり、土方歳三資料館の館長である土方愛さんが研師から聞いたエピソードとして有名です。
【和泉守兼定の研師の指摘】
・研師は親子二代にわたり、和泉守兼定を研ぐ
・父の代に函館から届いた和泉守兼定を研いだ
・最初は物打ちに刃こぼれがあった
・鞘糸が摩耗
ー土方の和泉守兼定ほど摩耗した刀を見たことが無い
ー持ち込まれたこともない
・相当に使い込まないとここまで使い込まれない
・相当に厳しい戦いを潜り抜けてきたと想像する
また、現存する和泉守兼定は慶応3年(1867年)に作刀されています。
土方が戦死したのは明治2年(1869年)で、最大でもたった3年しか使っていません。
それでも研師が驚くほど和泉守兼定がダメージをうけたことは土方の戦いの激しさを物語っています。
土方歳三が激しく戦った箱館戦争の様子を知りたい方は、次の記事も参考にしてください。
土方歳三の日本刀②:『堀川国広』~西の横綱~
2本目は脇差として所有していた堀川国広です。
堀川派として後代に大きな影響を与えた名門で、現在では流祖の堀川国広は江戸の長曾祢虎徹と新刀鍛冶東西の両横綱として最高の評価がされています。
先ほどの近藤の手紙にも堀川国広のことが記載されていました。
刀工 :堀川国広
時期 :戦国時代
サイズ:1尺9寸5分(59.05㎝)
特徴 :反りが浅い、身幅の広い、重ねが厚い、平肉の付いた貫禄と派手さのある作柄
これほどの名刀と土方歳三との関係をみていきたいと思います。
刀工は堀川国広
堀川派の流祖・堀川国広とはどのような人物だったのでしょうか。
【堀川国広の略歴】
・享禄4年(1531年) :日向国に誕生
・天正5年(1577年) :主家の伊東家が滅び、各地を流浪
ー上杉謙信、豊臣秀吉、石田三成などに仕えたとも伝わる
・慶長4年(1599年) :京都一条堀川に居住して作刀、名工を育成
・慶長19年(1614年):84歳で死亡
現在では長曾祢虎徹に並び称される人物ですが、戦国時代の刀工で、主家が滅びた苦労人です。
老境に差し掛かった頃から多くの名刀を生み出すとともに、多くの名工を育成することで後代に多大な影響を与えた名匠でした。
和泉守兼定と共に会津藩よりもらった?
堀川国広がどのようにして土方歳三のもとに至ったのかは明らかになっていません。
ただ、文久3年10月という新選組発足当初にこれほどの名刀を土方が取得できるとは考えにくいです。
恐らくは、会津藩主・松平容保が和泉守兼定を与えた時に堀川国広も一緒に与えたのではないかと考えられています。
実用的だった長刀の脇差
気付いた方もおられるかもしれませんが、土方の堀川国広は脇差にしては非常に長いです。
そのサイズは1尺9寸5分(59.05㎝)
日本刀は長さによって、名称が変わりますが、脇差のギリギリいっぱいの長さです。
文久3年10月、佐藤彦五郎への手紙で近藤勇が「脇差、長きほどよろしく御座候」と述べていました。
戦いの中では刀は折れたり、刃こぼれしてしまうことが常です。
万が一、実戦の最中に折れてしまっても脇差が長ければ打刀(大刀)の代わりにできるためだと言います。
実践を重視した新選組らしい考え方ですね。
土方もこの考え方にならったのだと思います。
土方歳三の日本刀③:『越前康継』~天下人・徳川家康の葵紋が刻まれる~
9月17日(日)の開館日。
— 佐藤彦五郎新選組資料館 (@hiko56usato) September 5, 2023
八坂神社では #天然理心流 の #奉納額 が公開予定です。
当資料館には門人名が鮮明な奉納額の古写真がございます。
また #土方歳三 が #松平容保公 より拝領した #越前康継 の刀身を皆様のご要望により、公開致します。 pic.twitter.com/Zb7rMkJGiL
3本目は越前康継です。
越前康継は徳川幕府の御用鍛冶で、徳川家康の「康」の字を名乗るほどの名匠です。
さらには徳川家の葵紋を刻むことが許される格式を誇ります。
刀工 :越前康継(初代)
時期 :戦国時代
サイズ:2尺3寸5分 (71.21㎝)
特徴 :徳川家の紋「葵紋」が刻まれている
豪壮観が強い、反りが浅い、重ねが厚い
南蛮鉄を多く使用したため、刀身は黒味を帯びる
刀工は越前康継
天下人・徳川家康が認めた越前康継はどのような人物だったのでしょうか?
【越前康継の略歴】
・天文23年(1544年):近江国坂田郡下坂村に誕生
・?? :諸国を流浪して修行
・文禄年間(1592~1596年) :肥後大掾を受領
→越前に移住
・慶長5年(1600年):徳川家康の次男・結城秀康の御用鍛冶として40石受領
・慶長11年(1606年):徳川幕府の御用鍛冶に選定
ー家康の「康」をもらい「康継」と名乗る
ー葵紋を刻むようになる=「御紋康継」と称される
近江国に生まれたとされる越前康継は、各地を修行して順調に出世しました。
そして、越前の移住で運命的な出会いが待っていました。
越前を治めていた徳川家康の次男・結城秀康との出会いでした。
越前では秀康の御用鍛冶を務め、
さらには秀康の推薦で徳川幕府の御用鍛冶となるに至り、名匠・名刀の地位を確立しました。
入手経路は不明 会津藩経由が濃厚?
この名刀・越前康継の土方への入手経路や時期は全く不明となっています。
唯一の手掛かりは、現存している土方の越前康継の「鍔」にあり、
「会津住 邦清」という銘が刻まれています。
わずかではありますが、和泉守兼定や堀川国広と同じく会津藩経由で手にした可能性が考えられます。
首切り浅右衛門が試し切り~越前康継に刻まれた文字~
土方の越前康継に刻まれた文字からは、その由緒と最上の戦闘刀であったことが伺えます。
表/裏それぞれに下記の銘が刻まれています。
【表銘からわかること】
①「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」
ーこの銘は初代や二代目に見られる銘
②葵紋の形
ー図のイメージのとおりで初代康継の葵紋
→初代・越前康継の作刀という由緒
【裏銘からわかること】
首切り浅右衛門として有名な山田浅右衛門が試し切りを実施
=切れ味抜群の証明され、超実践向きの刀
①「山田在吉試之」
②「山田吉豊試之」
山田家とは徳川幕府の御様し役を務めた一家です。
御様し役とは刀の切れ味をみるために試し斬りをする役職のことです。
当主は代々、浅右衛門を名乗り「首切り浅右衛門」と呼ばれていました。
土方の越前康継に刻まれた、
山田在吉は7代目山田浅右衛門の次男、
山田吉豊は8代目山田浅右衛門 のことです。
切れ味は首切り浅右衛門のお墨付き。
京都から壮絶な激戦続きであった土方歳三にはピッタリの戦闘向きの刀でした。
最愛の甥に贈った刀
土方歳三は戊辰戦争の最中、この名刀・越前康継を最愛の甥・佐藤俊宣に対して贈っています。
土方には子供はいませんが、溺愛していた甥がいました。
俊宣自身も銃の扱いに長けていたようで、一度京都に連れて行こうとしたと伝わります。
この俊宣が戊辰戦争時に旧幕府軍として参戦し、新政府に拘束されると言う事件がおきました。
これを伝え聞いた土方は可愛い甥の刀が没収されたのでは!?と思い、この貴重な越前康継を贈ったと後に俊宣自身が証言しています。(『今昔備忘記』)
この土方の行動のおかげで無事に越前康継が現存できているのでしょう。
土方歳三の日本刀④:『大和守源秀国』~会津藩お抱えの実践向き刀~
最後に4本目の大和守源秀国は比較的新しく、他の3本ほどの歴史があるわけではありません。
しかし、江戸時代後期からは親子3代で日本を代表する名刀を作刀していきます。
しかも、とても実践向きの刀で、土方歳三が愛したと想像します。
刀工 :秀国(3代目)
時期 :慶応2年(1866年)頃
サイズ:2尺2寸6分7厘(68.7cm)
特徴 :先端がやや軽い。(片手でも使えるように工夫されていて実戦向き)
刀工は大和守源秀国
土方の刀を打った大和守源秀国とはどのような人物だったのでしょうか?
・祖父である初代秀国は会津の刀工
・寛政4年(1792年):初代秀国が1年間薩摩で修行
・慶応2年(1866年):孫の大助が大和守を受領。
ー3代目秀国を名乗り、その名を高める
・明治24年(1891年)80歳で死亡
他の3本と異なり、江戸時代後期に興り、名を高めたのはまさに、土方歳三が活躍した幕末になってからでした。
しかし、その分時代に合った実践向きの刀が作刀されていきました。
新選組にて購入した大和守源秀国
この大和守源秀国は新選組が組織として購入したという記録が残っています。
土方歳三への入手経路ははっきりとしていませんが、この内の1本が土方の刀となったと思われます。
【新選組金銭出納帳の慶応3年(1867年)11月の項】
「金拾六両二分 大和守 刀身三本」
会津藩との関わりが深いので、優先して購入することができたのかもしれません。
幕府侍土方義豊戦刀~大和守源秀国に刻まれた文字~
大和守源秀国にも表/裏に銘が刻まれています。
ここには土方歳三が農民ではなく、幕臣となり本物の武士となったという誇りがみられます。
【表銘からわかること】
①大和守源秀国の作刀
②慶応2年(1866年)の作刀
→大和守は3代目。新選組が活躍する同時期の作刀
【裏銘からわかること】
・幕府侍土方義豊戦刀
→幕府の侍になったことがわかる
「土方義豊」とは聞きなれないですが、もちろん土方歳三を指します。
義豊とは土方歳三の諱(=本名)です。
農民でもなく、会津藩預かりでもなく、幕府直属の本物の武士になったとの土方歳三の嬉しさや誇りがうかがえます。
まとめ
以上、土方歳三が所有する4本の日本刀について紹介してきました。
和泉守兼定、堀川国広、越前康継、大和守源秀国 といずれも由緒があり、簡単には手に入らない名刀ばかりです。
土方歳三の地位の高さや周りからの期待があったからこそ、これらを所有できたのだと思います。
名刀を手に京都の街の治安維持につとめ、激戦を潜り抜けてきたのでしょう。
これからも新しい刀が見つかることを期待したいです!
コメント