祖父に売られて人質に!?天下人・徳川家康の幼少期を解説!

徳川家康

2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で徳川家康が取り上げられました。
嵐の松本潤さんが演じるということで非常に多くの話題をさらいましたね。

「徳川家康」とはどんなイメージでしょうか?

天下人、関ケ原の戦いに勝った武将、幕府開いた人、デブ、タヌキ…等 

学校の教科書を見てこんなイメージはあるけど、それ以外はあまり知らないという方が多いのではないでしょうか。


この記事では徳川家康がどんな人幼少期の家康に絞って解説します。

徳川家康の出身地

徳川家康は領地のために人生を振り回されたと言っても過言ではありません。

周りの国からの影響を受け続けていました。

家康が生まれたのは、天文11年(1542年)12月26日。「三河国」の西部でした。

城は岡崎城、当時は松平氏を名乗っておりました。現在の愛知県岡崎市です。

この三河国という本国の場所のせいで、家康はとても苦労することになります。

周辺を含めた当時のざっくり勢力図はこちらです↓

地図の通り、松平氏は三河国の一部で周りは大国だらけです。

特に家康が生まれたばかりの当時、松平氏は東西の2勢力の脅威に晒され続けていました。

・尾張国の織田氏 … 織田信長の父、信秀の時代。圧倒的経済力でのし上がりました。朝廷に内裏の修理費として約4億円ポンッと差し出してます。

・遠江国・駿河国の今川氏 … 今川義元の時代。2か国領有していた全国屈指の戦国大名です。室町幕府足利将軍家の親族である超名門です。

松平氏の中でも織田派か今川派かと意見が分かれてました。

また、周辺の地域も同様に織田派か今川派に分かれて争いが絶えませんでした。

家康のことを知るためにはこの地理がポイントとなります!

徳川家康3歳の時に両親が離婚

家康の母、於大の方。引用阿久比町観光協会

松平氏は常に織田氏と今川氏の争いに巻き込まれていました。

この争いは、尾張国知多郡の国衆であった水野氏も例外ではありませんでした。

そこで、松平氏と水野氏は同盟を結ぶことにしました。

その証として進められたのが、松平広忠於大の方との婚姻です。

天文10年(1541年)のことで、松平広忠は16歳、於大の方は14歳でした。

家康は、翌年の天文11年(1542年)12月26日に岡崎城に誕生し、

七夜(産後7日目のお祝い)に竹千代と名付けられ嫡男に定められました。(『徳川実紀』)

於大の方は家康を溺愛していたようで、三河国妙心寺に薬師如来の銅像を奉納して竹千代の長生きを祈念したと伝わっています。


しかし、水野忠政(家康の祖父)の死後、

家督を継いだ水野信元(於大の方の兄、家康の叔父)が松平氏の敵である織田氏へ急接近するという事態が起きました。


そこで天文13年(1544年)9月に今川氏との結びつきを重視した広忠は、於大の方を離縁し、実家へ帰してしまいました…。

この時、家康はまだ3歳、母於大の方と離れ離れになって暮らすことになりました。

於大の方は、実家へ帰される道中、松平氏の御家人たちに、自分を捨ててすぐ岡崎へ帰るように伝えたと言います。(『徳川実紀』)

怒った信元が、彼らを切り捨てることで両家の禍根を残すことを憂慮したためです。

家康と信元は叔父甥の関係なのでのちに和睦ができるように信じた、とても思慮深い女性だったようですね。


於大の方は、その後、水野氏と同盟関係にあった尾張国衆で

坂部城(愛知県阿久比町)の城主・久松長家に再嫁し、3男3女を儲けました。

ちなみに於大の方と家康の2人が再会することができたのは、

16年も経った後、今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで敗れたことで実現するのです。(『徳川実紀』)

この章のまとめとして関係性を図にしました↓

この後も家康の過酷な運命は続いていき、6歳で急展開を迎えます。

徳川家康 6歳の時に祖父に売り飛ばされる

小林清親 「教導立志基 卅一〔三十〕徳川竹千代君」「教導立志基」「徳川竹千代君」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

本章では、於大の方と離れ離れ家康の人生について見ていきたいと思います。

於大の方と離婚した松平広忠は、天文14年(1545年)に渥美半島から三河湾にかけて勢力を誇っていた戸田康光の娘、真喜姫と結婚します。

家康にとっては新しく祖父と母親ができたわけですね。

先述の通り、松平氏は水野氏の方向転換のために織田氏の脅威にさらに晒されることになりました。

そこで、広忠は今川義元への従属を示し、援護を申し出ました。
その証として、嫡男の竹千代を人質に差し出すことを求められました。

天文16年(1547年)、義元の求めに応じ、広忠が竹千代を人質として差し出したところ、駿府に向かう途中で、祖父の三河田原城(愛知県田原市)戸田康光に誘拐されるという大事件が起きます。

いわゆる、「竹千代強奪事件」です。

その後、織田信秀(織田信長の父)に売り渡されてしまいました。

その額は永楽銭1,000貫(現代の約1億~1.5億円)、船で熱田の宮(愛知県名古屋市熱田区)へ連れていかれ、大宮司の加藤順盛(よしもり)の預かりとなり、翌年までいたと言います。(『三河物語』)

三河物語によれば、その後、信秀から服属するように迫られたが、広忠は終始断り続けたそうです。

義元はその姿勢を認め、「広忠を助けて加勢しよう」と太原雪斎に命じて駿河・遠江・東三河三国の兵を集めて加勢して、小豆坂の戦いで織田方を退却しました。(天文17年3月19日)

そして、今川方は藤川(愛知県岡崎市)へ引き上げ、織田方は安城へ引き上げます。

信秀は子の信広(織田信長の兄)を安祥城(愛知県安城市)において清州城(愛知県清須市)へ引き上げていきました。

徳川家康 7歳の時に父親と死別

さて、今川氏の援助を得た松平氏ですが、天文18年(1549年)3月6日、またもや大事件に襲われます。

当主、「松平広忠暗殺事件」です。

詳しいことはわかっていませんが、暗殺されたのは、岡崎城の中です。

暗殺者は御家人の岩松八弥という者で刺殺されたと言います。享年24歳でした。

この時、岩松八弥を捉えたのは、植村新六郎氏明という武士でした。

偶然、広忠を訪ねに来た時、岩松八弥に遭遇し、そのまま捕らえ、両者ともに空堀の中に落ちて
八弥の首をとって主君の敵討ちをしました。

この植村氏明は、家康の実祖父・松平清康が暗殺された時も、刺客を捉えた武士です。

まとめ

今回は家康の幼少期について解説しました。

3歳で両親が離婚し、6歳で誘拐され、7歳に父親と死別する…。

非常に悲劇的な幼少期でした。

織田氏と今川氏の争いが絶えなかった三河国に家康は生まれました。

両氏の争いは周辺の国衆にも当然のように広がりました。

その争いの一番の被害者が家康だったかもしれません。

この後も形は変わりますが、周辺国の影響を受け続ける人生を歩んでいきます。

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