【赤塚の戦い】織田信長の家督相続後、最初の戦いについて解説!

戦国時代

織田信長は天文21年(1552)3月3日に父・信秀の死により家督を相続しました。

父・信秀は尾張国で一番の実力者でしたが、信長は19歳と若く、「大うつけ」との噂もあります。

国内の勢力は以前のまま織田家に協力するか悩みますが、鳴海城主の山口教継のりつぐ教吉のりよし親子が早速、敵国の今川氏へ内通しました。

この裏切りに信長が対抗した戦いを「赤塚の戦い」といいます

信長方は30人が討死する激しさでしたが、結果は引き分けでした。

今回は織田信長が家督相続後に最初に戦った「赤塚の戦い」について解説します。

赤塚の戦いはいつ起こったか?

  • 天文21年(1552)4月17日
  • 巳の刻(午前10時)~午の刻(正午)
  • 織田信長が19歳のとき

尾張国の一番の実力者である織田信秀は天文21年(1552)3月3日に死亡しました。

まだ42歳、尾張国の織田と駿河・遠江・三河国の今川は国境争いの真っ最中のことでした。

信長の父・織田信秀

家督を継いだのは嫡男であった19歳の織田信長です。

赤塚の戦いが起こったのは、家督相続後のわずか1か月後

天文21年(1552)4月17日のことでした。

赤塚の戦いはどこで起こったか?

赤塚の戦いは現在の名古屋市緑区鳴海町赤塚 周辺で起こりました。(赤塚公園周辺)

敵方の山口教継は鳴海城、笠寺城、桜中村城の3拠点で織田方へ抵抗します。

対する信長は居城の那古野城から出陣し、中根村、小鳴海を通り、三のう山に着陣しました。

【信長方の拠点】

三のう山

【敵方・山口教継の拠点】

鳴海城:山口九朗二郎教吉(教継の息子)

笠寺城:葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾顕茲・浅井小四郎

桜中村城:山口左馬助教継

赤塚の戦いは誰との戦いか?兵力は?

赤塚の戦いは織田方(厳密には織田弾正忠家)と駿河・遠江国の今川方との争いです。

【赤塚の戦いの構図と兵力】

織田信長800人 VS 山口教吉1,500人

山口教吉は山口教継の息子です。

年齢は20歳。

信長は19歳なので、同年代となります。

父の山口教継は織田信秀の信頼が厚く、対今川への備えとして鳴海城主に任命された人物でした。

『信長公記』には「織田備後守殿御目を懸けられ候」と記述されています。

赤塚の戦いが起こった理由は?

  1. 「うつけ」と呼ばれた織田信長が19歳という若さで家督を相続
  2. 体制を不安に思った織田方の鳴海城主・山口教継のりつぐ親子が今川義元へ内通
  3. 裏切りに対して織田信長が攻めてきたため戦いに発展

織田信秀は尾張で一番の実力者でしたが、信長はまだ若く、父親と同じ器量があるのか不明でした。

しかも、「大うつけ」との噂があり、今まで通り織田か、駿河・遠江の今川へつくか、尾張国内の国衆などは処遇に迷ったことでしょう。

信長が家督を継いだ弾正忠家内さえも分裂していた状態だったので、周囲に迷いが起こるのは無理ありません。

実際に心配が的中し、裏切った人物が、鳴海城主・山口教継でした。

山口教継は信秀が死ぬと間もなく謀反を企て、今川勢を手引きして尾張の領内に侵入させます

鳴海城には息子教吉をいれ、

笠寺に砦・要害を造り(笠寺城)、葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾顕茲・浅井小四郎の5人の今川方の武将を配備しました。

山口教継自身は桜中村城を改造し、立てこもりました。

鳴海城周辺が今川方に占領されたため、信長は対抗して出陣をします。

兵を率いて、中根村、古鳴海へ移動し、三の山に着陣し、「赤塚の戦い」が開始されました。

赤塚の戦いの戦闘とは?結果は引き分け

  1. 山口教吉が兵1,500を率いて鳴海城から赤塚へ出陣
  2. 教吉の動きをみた織田信長が三のう山より出陣
  3. 巳の刻(午前10時)~午の刻(正午)まで乱戦
  4. 信長方は30人が討死
  5. 結果は引き分けで捕虜や逃げた馬を返しあった
  6. 両軍その日のうちに帰った

鳴海城にいた山口教吉は北側へ約1.6km(15町)の赤塚へ兵1,500を率いて出陣しました。

信長はその様子を三の山からみて、ただちに赤塚へ向かいます。

両軍はすぐにぶつかり9~11m(5~6町)の距離となったところで、優秀な射手が互いに矢を放ちあい乱戦となり、信長方では荒川与十郎が射られました。

乱戦となり、5人の山口方が槍に刺されて討死し、信長方では30人が討死しました。

もとはどちらも織田方のため、お互い顔見知りでしたが、容赦なく戦った様子が伝わっています。

大勢が生け捕りになりますが、最終的には敵陣に逃げた馬も含めて、全てを交換し、引き分けにおわりました。

その後、山口教継・山口教吉は駿河へ呼ばれ今川義元に切腹させられ、鳴海城には岡部元信が入ることとなります。

これが、桶狭間の戦いへと繋がります。


まとめ

以上、赤塚の戦いについて解説しました。

織田信長は家督相続後、わずか1か月にもかかわらず、裏切りに対して迅速な対応をみせました。

しかも、半分の兵力で引き分けに持ち込むほどの実力でした。

赤塚の戦いの一因でもあった信長の「大うつけ」の噂はやはりただの噂であり、信長自身は嫡男としてまじめに勉強し、家督相続に向けて準備をしていたのでしょう。

この後も信長は弾正忠家と尾張国の統一に邁進することになります。


信長の真面目な青年時代についての詳細はこちらの記事を読んでください。

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