鳥居忠吉とは何をした人物?徳川家康のために貯金し続けた忠臣!

徳川家康

天下人・徳川家康を支えた人物でイメージするのは

徳川四天王の酒井忠次や本多忠勝が真っ先に挙げられると思います。

しかし、駿府に居住していた時から経済的に家康を支え続けた忠臣、

鳥居忠吉とりいただよしを忘れてはいけません!

一般的にはあまり知られていないですが、

『どうする家康』でイッセー尾形さんが演じており、一躍有名になったと思います。
鳥居忠吉 | 登場人物 | 大河ドラマ「どうする家康」 – NHK

忠吉が家康を支えることができたのは、「商人武士」であり、裕福だったからです。

この記事では、鳥居忠吉が「商人武士」になった背景や参加した合戦から、どのような人物だったのか解説していきます!

鳥居忠吉の先祖は?

鳥居氏の先祖は穂積氏と名乗っていたと伝わります。
重氏という人物が熊野山に鳥居を建築したことから、「鳥居氏」となります。
平安時代より繋がる歴史の長い家系です。

鳥居忠氏…重氏の息子。鎌倉時代、源頼朝より数か所の地頭職を与えられた人物。与えられた土地を横領。承久の乱では後鳥羽上皇方につきます。
その後、三河国矢作荘の渡里わたり(「渡」)に移住。

鳥居忠景…建武の新政の時、新田義貞に属し、軍功を挙げるも蟄居。

忠景から数えて、8代あとに誕生したのが
鳥居忠吉です。

父や祖父のことや忠吉の生年は不明ですが、
先祖より代々譜代の御家人だったようです。

「商人武士」だった鳥居忠吉

忠吉自身は、松平清康(家康の祖父)・松平広忠(家康の父)に仕えていました。

忠吉にとって、大きな変化は、広忠に仕えていた
天文16年(1547年)9月28日の「渡の合戦」でした。

この合戦は広忠に反抗し織田方となっていた
松平信孝(清康の弟・広忠の叔父)との戦いでした。

山崎城(愛知県安城市)にいた信孝は
広忠攻撃のため出陣します。

対する広忠方は岡崎城から矢作川を渡って
渡河原で激戦となり、敗れてしまいます。

この時に、鳥居忠吉の
長男・鳥居忠宗が討ち死にします。

これを哀れんだ広忠は、この「渡」の地を鳥居忠吉に与えたと伝わります。

↓鳥居忠吉が与えられた「渡」(上)と本拠地「渡城跡」(下)

地図をみてわかる通り、渡城は矢作川右岸沿いに位置しており、舟運との関わりが想像できます。
(矢作川は三河湾へとつながっています)

忠吉は渡城を本拠として岡崎周辺の流通を担い、利益を得ていました。

鳥居氏の「商人武士」たる所以です。

なお、詳細は伝わってませんが、鳥居一族は代々渡に住み、流通を担っていたと思われます。

渡の合戦後、忠吉が渡の支配を認められることで、鳥居一族の経済基盤がより盤石なものとなったのでしょう。


ちなみに、同年8月は広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が織田氏に誘拐され、熱田に抑留された年でした。

家康の幼少期や「竹千代強奪事件」についてはこちらを読んでください。

岡崎城の奉行に任命された鳥居忠吉

天文18年(1549年)、駿河国の今川義元の尽力によって、徳川家康は岡崎に帰還します。(安祥城攻撃)

しかし、すぐに今川氏の本拠地・駿河国にて過ごすようになりました。


駿河生活時代の家康の解説はこちらの記事を読んでください。


その間、岡崎城は以下の体制で運営されていたようです。

・城代:今川氏上級家臣が交替で勤める
・奉行衆:阿部大蔵定吉・石川忠成・鳥居忠吉・松平次郎右衛門重吉

奉行衆筆頭は阿部大蔵定吉と石川忠成でしたが、忠吉も奉行衆として働いています。

『寛政重修諸家譜』によると、忠吉は惣奉行に任命されたとあります。

家康不在の岡崎城を守り続けた三河武士の中心メンバーでありました。

徳川家康を支える鳥居忠吉

駿府時代を支える

駿府時代の家康の生活は費用が少なく、困窮していました。

忠吉は先述の通り、岡崎の流通を担っており裕福だったため、常に衣服や食料を送ります。(『寛政重修諸家譜』)

さらに、休暇で駿府に行った時は、日夜家康の側に仕えて色々な話をしていました。そのため、家康からの「御親み最厚」だったそうです。

忠吉による家康への期待

また、10歳の家康が、百舌鳥を鷹のように据えて遊んでいた時のこと。

↑こんなイメージでしょうか

忠吉の三男で13歳の元忠にも「やってみろ」と指示するも、「据え方が違う!」と縁側から突き落とした事件が起きます。周りの者たちは、家康の振る舞いに対し諫めますが、忠吉は異なります。

「凡人なら憚って、そのような振る舞いは遠慮して控えるのに、心のままに振舞える家康は”大将の御器量”が備わっている。将来大成する方なので、お前も心広く補佐し、今後も忠勤に励むように!」と忠吉は息子の元忠に伝えたようです。(『寛政重修諸家譜』『名将言行録』)

家康に対して相当な期待をしていることが垣間見えるエピソードです。

家康のために軍用金を貯金

弘治2年(1556年)、家康が15歳となった時のこと。

松平家当主となった家康は駿府から一度岡崎に帰ります。
亡き父・広忠の墓参りが理由でした。

この時、忠吉が密かに倉庫へ案内して蓄えを見せ、将来出陣の際、兵糧は十分あるので安心してくださいと伝えました。

御年十五にならせたまうのとき、岡崎城に帰らせたまう。御譜第の輩拳て相喜びこれを迎えたてまつる。忠吉進んで御手を取て導きたてまつり、わが家蔵を開いて米穀資材等を見せまいらせ、某、年老いてはしり廻りの事はかないがたし、よりてかく家蔵をおおく構えて兵糧をたくわへ、我君善士を多く集めて、威名を四方に奮わせ給わむ事をねがうう処なり、もし明日にも御出馬あらむにおいては、軍用に事欠給うことはあらじ、御心安くおぼしめされよ

『寛政重修諸家譜』

今川氏の配下のもと、三河国の人々の負担は増大していました。段銭や棟別銭(固定資産税みたいなもの)が新設されたり、戦いの度に三河の人々は先陣として駆り出されたようです。

さらに、酒役・舟役など営業税というべきものが負荷されており(『岡崎市史』)、
岡崎の流通を担っているとはいえ、忠吉も相当苦労して貯金したと思います。

貯金とは別に、駿府の家康への仕送りもしているので…。自身の生活はかなり切り詰めていたのかもしれません。

鳥居忠吉の戦歴

ここまでは、鳥居忠吉の商人の側面を紹介してきました。

最後に武士らしい忠吉の戦歴を紹介していきます。

三河安祥城攻め

天文18年(1549年)3月、岡崎城で大事件が勃発します。

松平家当主・広忠が近臣の岩松八弥によって殺害されます。当時、家康は織田氏に抑留されており、跡継ぎがいない状態でした。

織田氏の支配下に松平家が組み入れられることを危惧した今川義元の動きは早く、3月中には太源雪斎と朝比奈泰能らに岡崎城を抑え、直接の指揮下に置き、そのまま織田信広(織田信長の長兄)が守る安祥城を攻撃します。

同年11月8日、今川方の援軍として攻撃する際に忠吉も参戦しました。
他の52人の岡崎衆と共に、馬から降りて槍をとって奮戦します。

結果、今川方が勝利し、生け捕りにした信広と人質交換することで、家康は約2年ぶりに岡崎城へ帰還することができました。

↓安祥城跡

桶狭間の戦い

永禄3年(1560年)5月、今川義元は尾張国へ侵攻します。

同年5月19日、家康は今川方の大高城の孤立を助けるため、織田方の丸根砦を攻撃を命じられます。
この攻撃の際、家康は軍を3部に分けます。

忠吉は遊軍となって従軍しています。

忠吉の戦いぶりの様子はわかっていませんが、丸根砦は無事攻め落とすことができたので、活躍もあったことでしょう。


桶狭間の戦いについての詳細はこちらの記事を参考にしてください。

三河一向一揆

桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、家康は織田信長と同盟を結びます。

同盟後は、今川方との激しい戦が長引くこととなります。戦が長期化することで兵糧が必要となり、三河国内で内乱が勃発します。

永禄6年(1563年)から始まった三河一向一揆です。

家康派と反家康派に家臣団が分裂する争いでしたが、忠吉は家康派として参戦します。

忠吉は岡崎城にて、鶴之助某、才市郎某、久五郎某と共に奮戦します。

このように、松平家(徳川家)の主要な合戦には全て参戦しており、武士としての活躍も見られ、戦いの面からも家康をサポートしてきた忠臣でした。


三河一向一揆の詳細の解説はこちらを読んでください。

まとめ

以上、「商人武士」として、お金・戦いの両面から家康をサポートしてきた鳥居忠吉を紹介しました。

詳しくわかっていない部分も多い人物ですが、以下の両面を持ち合わせていたことは事実です。

商人:岡崎の流通を担う「渡」という土地を領有
武士:主要な戦いに従軍。岡崎奉行も勤める、三河武士の中心人物

家康が今川氏から独立してからも援助はし続けたと思われますが、
元亀3年(1572年)3月25日に80歳余りの生涯を閉じました。

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