新選組は武士ではなかったため、「局中法度」という鉄の掟で結束を固めたとよく語られます。
司馬遼太郎の『燃えよ剣』から土方歳三が制定したと思われがちですが、史実は違います。
そもそも「局中法度」は存在せず、作家の子母澤寛が創作した掟です。
しかし、切腹した隊士が多いのは事実で、「掟」は実在しました。
この記事では新選組の「掟」の真の姿を解説します。
一般的なイメージの新選組の局中法度は子母澤寛による創作
新選組関係の作品には必ず登場する「局中法度」。
以下の5か条から成り立ち、背けば即、切腹という法度です。
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也
子母澤寛 『新選組始末記』ー侠士ぞくぞく集まるー
実は、この「局中法度」という名称と5か条の条文は当時の記録には一切残されていません。
もし資料が見つかれば大発見です。
一般的に知られるこの「局中法度」が初めて公に登場したのは、昭和3年(1928)。
子母澤寛が刊行した『新選組始末記』で、「侠士ぞくぞく集まる」という話の中です。
つまり、子母澤寛が創作した「掟」なのです。
しかし、ゼロから創作したわけではなく、その元ネタはあります。
子母澤寛が参考にした局中法度の元ネタ
子母澤寛が参考にしたと思われる元ネタは以下の2点があります。
永倉新八が語った4か条の「禁令」
大正2年3~6月まで「小樽新聞」にて新選組の幹部・永倉新八の回想談が連載されました。
そこに新選組の掟について語られており、
唯一、具体的に語られた記録です。
永倉は下記のように4か条をあげて「禁令」と呼びました。
十三人で新しい面々はいわば烏合の衆、これを統率するにはなにか憲法があらねばならぬ。
そこで芹沢は近藤、新見のふたりとともに禁令をさだめた。
それは第一士道をそむくこと、第二局を脱すること、第三かってに金策をいたすこと、第四かってに訴訟をとりあつかうこと、この四箇条をそむくときは切腹をもうしつくること、またこの宣告は同志の面前でもうしわたすというのであった。
永倉新八 『新撰組顛末記』ーおぼろ月夜の惨劇、壬生浪士と新撰組ー
つまり、「私ノ闘争ヲ不許」以外の掟が存在したと永倉は語り残しているのです。
しかし、ここでも「局中法度」という名称は残されていません。
内容を参考にしたと思われます。
実在した「軍中法度」という戦時の掟
一方、「局中法度」の名称は、実在した「軍中法度」という戦時の掟を参考にしたと思われます。
元治元年(1864)11月。
池田屋事件や禁門の変を経て、長州征伐が現実味をおびていた時期のことです。
新選組では「軍中法度」という9か条から成る戦時の掟を策定しました。
これと対比する形で平時の掟として子母澤寛が「局中法度」と名付けたのでしょう。
新選組の「掟」の真の姿とは
「局中法度」が存在しなかったとお伝えしました。
しかし、「掟」自体が無いのではなく、実在はしています。
先に結論を言うと、以下が「掟」の真の姿でした。
新選組結成時から存在した「掟」は「局ヲ脱スルヲ不許」
確実に存在したのは、「局ヲ脱スルヲ不許」という2つ目の掟です。
これは同時代資料の『彗星夢雑誌』と『元治秘録』に下記のように「定め」として記録されているからです。
いったん組入りいたしものは、破談相成らず。絶えて離れ候わば、仲間より切害いたし候定めの由
『彗星夢雑誌』
壬生浪士掟は、出奔せし者は見付け次第、同志にて討ち果たし申すべく、との定めの趣
『元治秘録』
つまり、いったん加盟したら、脱隊は認めず、脱走者は仲間が殺害するとの掟でした。
『彗星夢雑誌』は文久3年(1863)6月の記事のため、新選組結成時期からの「掟」だったことがわかります。
組織拡大に伴い、「掟」が整備された
何度もお伝えしているように、明文化された「局中法度」は実在しませんでした。
しかし、「掟」が整備され、「掟」により処分された隊士の記録は残っています。
記録を残した人物は西村兼文。
彼は西本願寺の僧侶で、新選組と同時代に生き、見聞きしたことを『新撰組始末記』として残しました。(ややこしいですが、子母澤寛の作品とは別です。)
「伊東甲子太郎入隊之事」という記事の中に、「掟」の整備に関する記述があります。
新撰組更に規律を設立し、隊伍を編制す。
(中略)
厳重に法令を立て、其処置の辛酷なる一例を挙るに、隊士中に田内知と云える者あり。
(中略)
又此頃、瀬山瀧人、真田次郎と云える壮士あり。土方歳三、江戸より新募集二十余名の中なり。
町家の婦に密通したる聞えあるを以て、隊規を犯せりと糾弾の上、隊中に於て切腹せしめられたり。
慶応元年(1865)の記事で、この頃の新選組は、第二次長州征伐の準備として、組織拡大をめざしていました。
隊士の新規募集を精力的に行い、1~10番の組長を選出して組織編制も同時に実施します。
編制のみでは拡大した組織をまとめられないと考えたため、「厳重に法令を立て」たのだと西村兼文は記録しています。
この法令が何だったのかはどこにも記録がなく不明なままですが、永倉新八が語り残した「4か条の禁令」の可能性は十分にあります。
実際に新しい法令により「処置」された人物も記録されています。
処分された隊士 | 切腹に至った経緯/原因 |
---|---|
田内知 | 田内知は京都洛外の八条村に妾を囲っていた。しかし、この妾は浮気者だったため、近隣の寺に下宿する水戸藩士と密通する。 ある日、妾と水戸藩士の密会中に田内が妾に会いにきた。 水戸藩士は逃げ場なく、押入に隠れる。 ただ、その場には酒肴が残ったままになっており、田内が不審に思っていると・・。 突如として水戸藩士が飛び出し、田内は背後から肩先を斬られ、両足をも斬られてしまった。 刀を抜けず、しかも背中を斬られたということは武士にあるまじき醜態。 そのため「士道不覚悟」として切腹を命じられた。 |
真田次郎(石川三郎) | 瀬山瀧人(施山多喜人)と共に商屋の婦人への婦女暴行事件を起こした。 隊規を犯したとして、切腹を命じられた。 |
瀬山瀧人(施山多喜人) | 石川三郎に同じ |
切腹のペナルティは新選組の恐怖政治ではない
このように、違反者にはすべて切腹という厳しいペナルティが待っていました。
そのため、非情で過酷な「掟」と考えられています。
切腹は軽い処分ではないし、
恐怖政治により新選組隊士の結束が固まった側面はもちろんあったと思います。
しかし、すべて切腹とした最大の理由は、新選組が本物の武士でなかったからです。
本物の(通常の)武士は藩などに所属し、切腹、お家断絶など、罪の軽重によって処分が変わりました。
一方、新選組隊士は守るべき家や家名がないため、処分は体で受ける切腹しか残らないのです。
つまり消去法で切腹処分となり、結果的に恐怖政治体制になったと考えられます。
まとめ
以上、新選組の鉄の掟として有名な「局中法度」について解説しました。
この「局中法度」は子母澤寛による創作ですが、全くの創作というわけではありませんでした。
新選組の「掟」については実在はしており、以下が真の姿だったと思われます。
新選組誰彼かまわずに切腹をさせまくった恐怖政治をしいた組織ではなく、当時の常識と時代情勢に合わせて生まれていった「掟」だったのです。
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