文久3年(1863)9月16日の夜。
激しい雨が降る中、新選組の巨魁隊長・芹沢鴨が暗殺されました。
暗殺方法は非常に残酷ですが、絶対に失敗できないという強い気持ちが表れています。
この記事では八木邸で行われた暗殺事件の詳細やその理由や犯人について解説します。
芹沢鴨の暗殺事件の詳細
9月16日の夕方、島原の角屋で大宴会
文久3年(1863)9月16日の夕方、新選組は島原の角屋にて総会を開催しました。
1か月前に起こった八月十八日の政変の出動の慰労会で、娼妓、芸子、舞子などをあげた大宴会でした。
この日は朝から土砂降りの雨で、お昼に一時止んだものの、夕方からまた土砂降りとなったようです。
芹沢鴨は、午後6時頃に宴会を中座します。
平山五郎、平間重助を連れて壬生へ帰り、3人に土方歳三、沖田総司も同行しました。
(徒歩20分くらいの距離です)
9月16日の夜(午後7~8時頃)、八木邸の母屋で2次会
八木邸では、3人の女性が待っていました。
『壬生ばなし』によれば、玄関横の四畳半の八木家の人々の寝室に、輪違屋の糸里は暗い中1人で待っており、八木為三郎を驚かせたようです。
(糸里がいたので、八木家家族の布団は北側の部屋に敷きました)
八木邸に戻った芹沢、平山、平間の3名と女性3名の合計6名に加えて土方歳三が2次会を開催します。
角屋からの距離から考えて、開始時間は午後7~8時くらいでしょうか。
『壬生ばなし』では午後10時頃に籠で帰ってきたとされていますが、あまりにも時間が経過しているので、為三郎老人の勘違いではないかと思います。
土方はしきりに芹沢たちに酒を勧めます。
すっかり泥酔した芹沢たちに対して土方は「夜も遅いのでお開きにしましょう」と言いました。
土方の狙い通りの状況となります。
部屋割りは上記の図の通りです。
芹沢・お梅と平山・吉栄のカップルはそのまま十畳の部屋で屏風1枚を挟み、西を枕にして就寝します。
平間は玄関横の四畳半で糸里と就寝しました。
蒸し暑い夜であり、深夜でも隊士の出入りも多いため、八木邸では雨戸はいつも閉めていません。
6人の就寝を確認した土方歳三は、八木邸の門を開けたままその場を去りました。
9月16日の夜(深夜12時頃)、暗殺決行
深夜12時頃。
土方歳三が足音を忍ばせて芹沢の寝ている部屋に近づき、そっとフスマを細めに開けて様子を確認します。(八木邸の主人の妻で為三郎の母・まさが目撃)
その後20分程は何もおきず、芹沢のいびきが聞こえていました。
そこに抜き身の刀をもった刺客が飛び込みます。
メンバーは4名。
山南敬介と原田左之助が平山五郎の寝首を掻き斬りました。
裸体で首と胴が離れていたそうです。
胸にも大きな傷があり、即死でした。
吉栄は偶然トイレに行っており、難を逃れたといいます。
これと同時に土方歳三、沖田総司が屏風を布団に被せて芹沢・お梅に刀を突きたてました。
沖田総司に斬られた芹沢は脇差で対抗し、鼻下を斬りつけます。(沖田は軽傷で済みました)
しかし、土方歳三の太刀が芹沢を襲い、重傷を負いました。
重傷の芹沢は縁側に逃げますが、何度も斬られて、隣の部屋に入ると文机に躓いて八木家の二人の息子の布団に倒れこみます。
そして、またもやズタズタに刀を突きつけ、斬られて遂に絶命。
芹沢は肩から首へ大きな傷がみられ、その他大小の傷は数えきれないほどで、
辺りは文字通り血の海でした。(『壬生ばなし』)
お梅も即死で、一太刀で首の皮1枚残して斬られました。
芹沢と同じく裸体で顔も髪も血がべったりとついて、少しでも動かすと首が取れそうだったそうです。(『壬生ばなし』)
平間と糸里は難を逃れました。
そもそも平間は暗殺対象にはなっていたかったようで、両隊長を殺害が完了すれば土方たち4人はすぐに立ち去っています。
平間は裸のまま刀を抜いて「どこだ!どこへ行った!?」と家の中を走り回ったあと、玄関から故郷の常陸国芹沢村へ逃走しました。
糸里は死んだふりをして難を逃れたともどこかに隠れたとも言われていますが、詳しいことはわかりません。
ただ、命が助かったことだけわかっています。
芹沢鴨暗殺の犯人は長州の間者。永倉新八も信じた犯人像
芹沢鴨、平山五郎の死は、対外的には「病死」と発表しました。
一方、新選組内部には「長州の仕業だ!」と発表しました。
この頃の新選組には長州の間者(スパイ)とされた6名の隊士がいます。
芹沢鴨暗殺から10日後の9月26日。
屯所の前川邸で粛清が行われます。
縁側で髪を結っていた御倉伊勢武と荒木田左馬之介を斎藤一と林信太郎が背後から殺害。
沖田総司と藤堂平助は越後三郎と松井龍三郎を殺そうと部屋に飛び込みますが、二人は逃げ去ってしまいます。
沖田総司が「屋内に彼らと同意の者あらん、方々油断めさるな」と叫んだため、松永主計と楠小十郎も血相を変えて飛び出しました。
松永は井上源三郎が背中に一太刀あびせましたが、そのまま逃走します。
一方、楠小十郎は原田左之助に前川邸の前で斬られ、水菜畑に倒れて死亡しました。
このように暗殺犯を長州の仕業にしたてた近藤一派は芹沢派の隊士を犯人として殺害したのです。
これには2つのメリットがありました。
- 近藤一派に疑いがかからない
- 芹沢派の隊士を犯人とすることとで、芹沢派が瓦解する
→新選組が近藤派の手中におさまる
隊士たちはしきりに「刺客がとびこんだ。長州の仕業らしい」と噂をしていたことも伝わっており、徹底した情報統制がされていたことがわかります。
実は近藤一派の永倉新八も真相は知らず、噂を信じていたようです。
永倉新八の『新撰組顛末記』と『浪士文久報告記事』は芹沢暗殺の犯人を以下の4名と記録しています。
神道無念流の同門だった永倉は芹沢鴨とも親密でした。
永倉から暗殺計画が漏れるのを危惧した近藤達は、永倉は暗殺メンバーから外しました。
そのため、永倉は真相がわからずじまいでした。
この芹沢暗殺は、近藤一味も余程秘密にやったものと見え、土方でも沖田でも、それらしい色も見せませんでした
(中略)
ずっと明治の後ちになって、この永倉と逢いましたから、私は当夜のことを自分も思い出しながら聞いて見ましたが、「全く何んにも知らなかった、近藤の差し金には相違ないが、あんなに生死を誓った自分にさえ遂々本当の事は云わなかった、しかし大体刀を振るったのは、土方沖田原田井上ではないかと想像している」との話でした。
『壬生ばなし』
真実がわからないままの永倉も噂は信じました。
だからこそ犯人として御倉伊勢武を外すことができなかったと思われます。
永倉は御倉が近藤をそそのかして芹沢暗殺を実行したものと考えたようです。
芹沢鴨が暗殺された理由には3つの説がある
芹沢鴨が暗殺された理由は、行状の悪さのため粛清されたというのが通説です。
しかし、前章でも述べたように近藤一派は芹沢暗殺後に情報統制をして長州の仕業に仕立てていることなどをみると、近藤派のクーデターが有力です。
他にも考えられる理由があり、紹介します。
- 粛清説
- 近藤派クーデター説
- 思想対立説
粛清説
一つ目の説は芹沢鴨の行状が悪いため、会津藩から粛清を命令された近藤一派が殺害したという粛清説です。
確かに芹沢には数々の悪行がありました。
常に酔っぱらっているという証言があり、酒が入ると見境なくなるような酒乱ぶりだったようです。
よく酒を飲む、朝から酒の香がして、まず酔っていないことは無いという風です。
『壬生ばなし』
このような悪行のため、近藤勇は会津藩の公用方より芹沢を召し捕らえることを命じられました。
さすがに新選組創設の張本人である芹沢を捕まえることはできず、しばらく謹慎させるしかないだろうと近藤は考えたようです。
会津公用方より近藤勇呼二参ル早速罷出ル芹沢鴨余リ市中乱暴イタシ依テ御所表より召捕可申様沙汰コレ有
(中略)
芹沢鴨ハ新選組ノ開発ノ本人夫故ニ(中略)一間住居謹慎イタサセルヨリ外ハ有間敷ト
『浪士文久報告記事』
上記のように、悪行→会津藩からの命令という流れから粛清説が通説となっています。
ただ、芹沢の悪行は一因ではありますが、
あくまでも「召捕」の指示ため、会津藩からの粛清指示はなく、完璧な説とは言い切れないのです。
近藤派クーデター説
そこで、有力な説が近藤派のクーデター説です。
文久3年9月時点では新選組のメンバーは52人いました。
しかし、近藤派は15人とかなり少数でした。
そこで、新選組の実権を握るために、近藤派が芹沢派を一層しようとしたのです。(クーデター)
ここで、注目される人物が芹沢鴨と一緒に暗殺された平山五郎です。
平山は一般的に芹沢の腹心で、副長助勤だったと語られることが多いですが、実は文久3年9月時点では局長の座についていました。
序列も芹沢に次ぐ第2位でした。(近藤勇は第3位)
序列の№1、№2を芹沢派に牛耳られ、人数でも劣勢だった近藤派の巻き返しが両隊長の暗殺につながったのです。
実際に、両隊長暗殺後、芹沢派は瓦解して新選組は近藤派のものとなりました。
(粛清と脱走も相次ぎ、人数を減らしてしまい、池田屋事件の際にも苦労することになるのですが・・・)
この近藤派クーデター説が非常に有力な説です。
思想対立説
最後は近年注目されている、思想対立説を紹介します。
新選組は徳川幕府と同じ「開国派」のイメージはないでしょうか?
実は、「尊王攘夷」が新選組の思想です。
- 過激尊王攘夷浪士を多数捕縛、殺害した
- 旧幕府軍として最後まで戦った
などのイメージから、徳川幕府と歩調を合わせた、長州藩などの尊攘派に対立した思想をもった組織と思われがちです。
しかし、同じ「尊王攘夷」でもそのレベルが異なります。
芹沢鴨は水戸出身で、天狗党のメンバーでもあったと言われています。
そのため、「尊王」の志が厚く、毎朝御所に向かって拝んでいたほどでした。
つまり、「尊王」が第一という思想です。
当時は孝明天皇が攘夷を熱望していたため、同じく攘夷思想でした。
一方、近藤勇は天領(徳川家の直轄領)出身のため、徳川幕府が第一でした。
しかし、開国ではなく、当時の流行りである「尊王攘夷」思想もあります。
つまり、徳川を中心とした攘夷の実行をしようと考えてました。
この思想の違いが露骨にでてしまったのが、有栖川宮・大原重徳の江戸東下警護問題です。
永倉新八の『浪士文久報告記事』によれば、この江戸東下に新選組が随行して警護の命令があり、小田原まで行ったのち、途中で横浜へ走り、鎖港してしまおうと考えたようです。
つまり、攘夷の魁となることで、将軍の朝敵も免罪になるだろうと考えました。
攘夷は新選組の総意なので、ここまでは問題はありませんでした。
しかし、ここで芹沢鴨が暴走するのです。
文久3年9月13日、芹沢鴨は有栖川宮邸に参上して、「御警護御用之儀御座ハバ何事ニ不限被仰付下度願候」(「警衛の用があれば何事に限らず申し付けてください」『熾仁親王行実』)という手紙と55名の名簿を直接提出してしまいました。
名簿は「みょうぶ」と読み、その提出は、貴人に対する臣従の証となります。
つまり、芹沢鴨は「尊王」のあまり、独断で「会津藩御預り」を放棄したようにみえていったのです。
勝手にリードしていき、近藤一派との溝が深まり、暗殺に至ったという説です。
このように思想対立は現実にありました。
しかし、有栖川宮邸には土方歳三、沖田総司、井上源三郎なども同行していたため、どこまで独断かは判然としません。
まとめ
以上、芹沢鴨の暗殺事件について解説しました。
文久3年(1863)9月16日に芹沢鴨は平山五郎とともに暗殺されました。
暗殺の犯人は近藤一派の4名でした。
事件後、
近藤一派は、芹沢派の隊士を長州の間者であり暗殺犯として殺害しました。
徹底した情報統制でした。
結果、近藤一派は新選組の実権を握ることに成功しています。
そのため、芹沢鴨暗殺の理由は、様々な説がありますが、
近藤一派のクーデター説が有力だと思われます。
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