貧乏暇あり? 傑物・大田南畝を誕生させた極貧御家人生活【大河ドラマべらぼう】

江戸時代

『寝惚先生文集』が大ヒットを飾り、若くして江戸文芸界をけん引した大田南畝。

のちには天明狂歌の三大家の一人に数えられるなど、名声は高まり、

南畝が生涯出版した書籍は50を優に超えるほどです。

しかし、南畝の本業は徳川将軍を警護する武士、御家人でした。

御家人にはそのような時間的余裕があったのでしょうか。

御家人は薄給で、貧乏な身分として有名ですが、南畝の場合は「貧乏暇あり」だったのでしょうか。

今回の動画では、大田南畝の生い立ちとその境遇を覗いていきます。

極貧御家人の家に誕生した大田南畝

大田南畝は寛延2年(1749)3月3日に江戸の牛込中御徒町で誕生しました。

父は34歳の正智、母は26歳の利世との間の子で直次郎と名づけられます。

大田家は代々、幕府の徒歩衆をつとめ、給料は70俵5人扶持(≒330万円)という小身の家で、幕臣といっても、御目見得以下の御家人でした。

その家は、非常に狭く、窮屈で膝を伸ばせず、庭は自然のまま、木々に渡された綱には赤ん坊のおむつが干されていたと言います。

幕府直参の武士は、旗本と御家人に大別されます。

石高が100石以上1万石未満は旗本、100石以下は御家人と呼ばれます。

これを御目見得以上、御目見得以下とも言いました。

御家人はさらに身分が細分化され、譜代と抱入の2つがあります。
譜代の者は職を世襲できる一方、抱入の者は一代ごとに改めて新規召抱えの手続きが必要とされました。

大田家が所属する徒歩衆は、御家人の抱入でした。つまり、幕臣の中の末席だったのです

また、もともと薄給の給料ですが、全額利用できたわけではありません。

武士は米が給料として支払われますが、米のまま自宅へ担ぎ込まず、換金していました。

この換金に対応する商人が「札差ふださし」と呼ばれ、換金の代わりに武士から手数料をもらいました。

しかし、実際は毎年確実に入る武士たちの給料を担保にして、前借をさせる高利貸業者となっていたのです。

そして、大田家もその例外ではなく、南畝が家督を継いだときには家には父・正智が残した莫大な借金がありました。

しかも、将来の給料はすでに担保として札差に抑えられており、将来は絶望的です。

このように、江戸時代を代表する傑物である南畝は極貧の家に誕生した苦労人でした

一方、南畝と対照的だったのが、のちに南畝とともに江戸文学の中心となる人物たちです。

同門であり、親友である平秩東作は、内藤新宿で煙草屋を営み、山東京伝は商人の家に生まれ、自身でも煙管を売り、大成功しており、お金には困っていません。

武士である、朋誠堂喜三二や恋川春町も藩の重役についており、裕福です。

また、同じく幕臣である土山孝之は田沼意次のもと勘定組頭として、出世しており、後に

吉原の大文字屋の花魁・誰袖を1,200両という大金で身請けするほど裕福でした。

御家人の生活は暇すぎる!?大田南畝の日常

さて、南畝は御徒という薄給の下級武士とお伝えしましたが、いったい何をしていたのでしょうか。

徒歩とは歩兵のことです。

本来の仕事は、戦場を駆けずり回って戦う兵士ですが、南畝が生きた江戸時代中期は平和が続いていたので、警護が基本的な職務でした。

御徒組は、南畝の時代には15組に分けられました。

その編成は御徒頭のもと、徒組頭2人、徒歩衆28人の30人が一組となっていました。

将軍の身辺警護が一番の仕事のため、徒歩衆は将軍が御成で外出する時には、道筋の先払いをしました。

行列の先方を駆け足で走り、白扇を開いて「下に下に」と声を掛けます。

将軍の駕籠が通過する間は、徒歩衆も地面に平伏し、見えない距離になったら頭をあげることが許されました。

また、将軍の鷹狩の際には、同行し、獲物を追立てたりと、まるで猟犬と同様の扱いを受けていました。

しかし、将軍の外出は頻繁にはないため、日常の仕事ではありません。

日常の仕事は、江戸城での警護です。

主に4つの番があり、15の御徒組がローテーションで回していました。

1つ目は、「本番」といい、江戸城の玄関の中にある遠侍とおざむらいの間の奥に詰めます。

こちらは、非常にきつい仕事です。

勤務中は膝の上に両手の拳を握って置き、正座をしていなければいけません。

老中や若年寄が登場して、玄関を通行する際は平伏。

御側衆が通行する際はお辞儀、大目付の時は正座のままなど、厳格に決められた格式と仕来りを守らなくてはなりませんでした。

また、交替で不寝番の日もあったとようです。

2つ目が「加番」といい、勘定所の警備、監視をおこないます。

3つ目が「御供番」といい、老中、若年寄の登場から退出までの警備役です。

4つ目が「二の丸当番」です。文字通り、二の丸の警備です。

多少ずれていきますが、旧暦の毎月30日としていくと、4日に1回ほどの勤務形態でした。

南畝は4番組に所属していたので、毎月4日、7日、11日、15日、19日、22日、26日、30日の合計8日が出勤日となったわけです。

つまり、南畝には時間はたっぷりあったのです。

このように時間を持て余し、貧乏をしている御家人は内職をするようになったのです。

笠はりをしたり、文鳥やジュウシマツを飼うなどが有名です。

南畝の場合は、この時間を有効に使い、学問に身を入れることにしたのでしょう。

そして、文芸の才能が目覚めていったのです。

現代では、作家というと多くの印税が入り、裕福なイメージがあります。

しかし、江戸時代の作家は、プロではなく、専業としては成り立たなかったのです。

南畝より少し後の時代の滑稽本作者の滝亭鯉丈は1冊あたり約9万円程の収入だったようです。

南畝の原稿料は明らかではありませんが、さらに少ない収入だったことは明白です。

つまり、南畝の狂歌や劇作はある意味では内職の一つでもあったのです。

極貧と御家人の特有の生活が傑物・大田南畝を生んだといってよいのかもしれません。

狂歌との出会いにより、大田南畝の生活が変化

大田南畝の生活は苦しいものでしたが、狂歌(こっけいな和歌)と出会い、その生活に変化の兆しが見え始めます。

南畝は、同門であり、ともに天明狂歌の三大家とよばれた朱楽管江とともに『万裁狂歌集』を出版し、狂歌でも江戸に大ブームも引き起こしました。

そして、南畝自身は「四方赤良」という狂歌名で、名声を高めたのです。

実は、天明3年(1783)頃から南畝は、吉原に3日に1回のペースで通うようになっていました。

江戸中を熱狂させた狂歌を通して、今まで以上に人脈を広げ、多くのバックアップを受けたのでしょう。

有名となっていた南畝はさらに出版を増やし、原稿料は増えていった時期だと思われます。

しかし、3日に1回の吉原通いを賄えるほどの収入とまではいかなかったでしょう。

恐らく、平秩東作や朱楽管江といった昔ながらの友人や、狂歌を通して知り合った、蔦屋重三郎や朋誠堂喜三二らの援助があったのではないでしょうか。

何よりも老中・田沼意次のもとで勘定組頭を勤めていた土山孝之がパトロンとなって南畝をバックアップしたのでしょう。

こうした日々が続く中、南畝は、なんと松葉屋の振袖新造、三保崎を天明6年(1786)7月15日に身請けしました。

具体的な金額はわかりませんが、数年の年季を残していたため、相当な金額だったと思われます。

南畝は自身の作品の中で、「一擲千金身を贖う」と悦に入っています。

松葉楼仲三穂崎 更名阿賤落蛾眉 天明丙午中元日 一擲千金贖身時

『松楼私語』

南畝も極貧の生活を思い、遊女を身請けできるようになった自分に浸っていたのかもしれません。

ところが、その一か月後。

天明6年(1786)8月27日に田沼意次が老中を罷免され、田沼派の粛清が始まりました。

そして、南畝をバックアップしてくれていた土山孝之に過酷な運命が待ち構えていました。

土山孝之の在職中の不正行為が発覚したのです。

数々の不正はありましたが、特に問題視されたのは、買米金500両の横領でした。

これがもとで、土山孝之は死罪とされました。

土山に言い渡された罪状には「誰袖を身請けして妾にしたこと」という箇条がありました。

土山と好意にしており、三保崎を身請けした自分も同罪かもしれないと、南畝にとっては不安な毎日だったことでしょう。

さらに、田沼意次のあと、幕政をリードしていた老中の松平定信による寛政の改革で文芸界への追及が厳しくなる中、

恋川春町が命を落とし、蔦屋重三郎、山東京伝が有罪になったことから文芸界は、火が消えたような暗い空気が流れていました。

不幸中の幸いにも、南畝にはついに咎めはありませんでしたが、このことを機に、文芸界との絶縁を決意したのです。

御家人として真面目に生きた大田南畝の後半生

文芸界と絶縁してから、5年たった寛政6年(1794)。

南畝は、46歳で御家人として真面目に生きる第二の人生をスタートします。

この年に学問吟味を受験し、南畝は御目見得以下の中で首席となったのです。

そして、寛政8年(1796)11月に、幕府の支出や国郡の調査をつかさどる支配勘定に昇進し、部下が7人つき、100俵5人扶持(≒440万円)に加増されました。

そして享和元年(1801)1月11日、南畝53歳の時には、誰もが羨む大坂銅座への出役を命じられました。

さらに、文化元年(1804)6月18日、56歳となった南畝は長崎奉行所への赴任を命ぜられました。

これらは、観光ができたり、収入も増えるため、非常に人気の役であり、優秀な人物だけに与えられる職です。

南畝は第二の人生では、幕臣として着実に成果を残していったのです。

しかし、文化5年(1808)12月、突如として、多摩川巡視を命じられました。

これは堤防の状態などをチェックする役目で、冷たい多摩川の中を歩き回らないといけません。

12月20日は大雪と大風だったようで、南畝も辛さを吐露しています。(「くるしき事いはんかたなし」)

既に南畝は60歳となっており、2人の孫もいました。

大坂・長崎の栄転など南畝の才覚を妬んだ悪意を感じる人事です。

ただ、それでも南畝はめげず、真面目に働きつづけました。

70歳を越えても、江戸城と自宅を徒歩で往復し、ついには文政6年(1823)4月6日、75歳に老衰でこの世を去りました。

まとめ

以上、大田南畝の御家人生活を見ていきました。

御家人の中でも、末席の家に生まれた南畝ですが、

貧乏にも負けず、御家人特有の勤務形態を上手く活用し、文芸界で名を馳せました。

そして、文芸を通して知り合った多くの人物と交流を重ね、御家人では到底不可能な遊女の身請けまでしています。

しかし、時代の変化に合わせ、後半生は真面目に生きた人物でした。

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