土方歳三の最後の戦い、戊辰戦争最大の激戦・箱館戦争を簡単解説

幕末

2024年4月に公開された劇場版名探偵コナン『100万ドルの五稜星』の公開で土方歳三の人気が高まっています。

土方歳三といえば洋装のイケメンの写真のイメージが強いですね。

写真を撮影したのは明治元年(1868)12月の箱館。

この前後で土方歳三は戊辰戦争最大の激戦である箱館戦争を戦い抜きました。

この記事では土方歳三にとっての最後の戦い、箱館戦争はどのような戦争だったのか。

そして、どのように戦ったのか簡単に解説します。

土方歳三の五稜郭入城

明治元年(1868)10月、新政府と戦っていた旧幕府軍は劣勢にありました。

そこで3,000名の旧幕府軍は抵抗をつづけるため、当時最強の開陽丸に乗船して蝦夷地(北海道)を目指します。

上陸後、新政府軍が支配していた五稜郭へと出陣。

2手に分かれた旧幕府軍のうち、1軍は土方歳三が率いました。

旧幕府軍の中で実力が抜きん出て、信用されていた証拠です。

旧幕府軍は新政府軍を蹴散らして進軍。

無事に五稜郭へ入城し、箱館を占拠することに成功しました。

この進軍での土方歳三にとっての敵は、「雪」と「寒さ」だったと言います。


土方歳三の松前城攻撃 1日で落城させた敏腕

松前城攻撃の様子。麦叢録附図(函館市中央図書館 デジタル資料館より)函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブ (fun.ac.jp)

箱館・五稜郭を占拠した旧幕府軍は、休む間もなく土方歳三を出陣させました。

目的地は蝦夷地で唯一新政府側だった松前藩の本拠・松前城。

11月5日の早朝には松前城城下に到着し、旧幕府軍は総攻撃を開始しました。

籠城する松前藩兵に対して、陸と海の両方からの激しい砲撃をあびせて旧幕府軍は優勢に戦いを進めます。

しかし、松前藩兵の抵抗も激しく、なかなか落城には至りません。

そこで土方歳三は松前城の裏手へ兵を移動させて、奇襲作戦を決行します。

驚いた松前藩兵は一気に逃亡を開始し、ついに落城となりました。

わずか1日の出来事で土方歳三の強さが証明されました


開陽丸沈没に泣いた土方歳三

松前城を落城させた土方歳三は、逃走する松前藩兵を追いかけて江差を目指しました。

同時に江差を目指していたのが、旧幕府軍自慢の最強・開陽丸。

開陽丸の活躍もあり、江差の占拠し、蝦夷地統一を果たしました。

開陽丸

しかし、

この時、信じられないできごとがおきます。

開陽丸が沈没

新政府を恐れさせた開陽丸を失うこととなり、かろうじて保っていた軍事バランスが崩れてしまいました。

この衝撃的な光景を目に松を叩きながら土方歳三は男泣きしたそうです。

北海道江差町の観光情報ポータルサイトより

さらにはこの戦争の敗北と自身の死を意識し始めたのかもしれません。

だからと言って、諦める土方歳三ではありません。

最後まで戦う覚悟と死に場所を探すようになっていくのです。

箱館政府樹立と土方歳三の陸軍奉行並の就任

開陽丸を失ったとはいえ、蝦夷地の統一には成功していた旧幕府軍は、箱館政府を樹立しました。

明治元年(1868)12月15日のことです。

箱館政府は非常に先進的で民主的な国家でした。

政権の総裁を選挙で決めたのです。

1位で総裁となったのは榎本武揚えのもとたけあき

箱館政府総裁 榎本武揚

土方歳三は6位と大健闘し、役職には陸軍奉行並りくぐんぶぎょうなみという陸軍№3という高い地位につきました。


起死回生の戦艦奪取作戦 土方歳三にとって生涯唯一の宮古湾海戦

年が明けた明治2年(1869)3月、新政府軍の艦隊が北上を開始したという情報が箱館に届きました。

しかも、甲鉄艦という最新鋭の軍艦を引き連れるとの情報もあり、大きな衝撃だったことでしょう。

そこで、箱館政府はこの甲鉄艦を宮古湾(現在の岩手県)で奪って自軍の軍艦にしようという奇策を考え、実行しました。

宮古湾海戦です。

この戦いは土方歳三にとって最初で最後の海上戦です。

かなり激しい戦いで、わずか30分の戦いで両軍合わせて80名程の死傷者がでました。

残念ながら作戦は失敗し、箱館政府軍の惨敗

さらに戦力差が拡大した結果となりました。

宮古湾海戦の様子 箱館政府軍は船から飛び移って甲鉄艦を奪おうとした

新政府軍の上陸と二股口の戦い

明治2年(1869)4月9日、ついに新政府軍は蝦夷地に上陸をはたしました。

新政府軍は3方面から箱館・五稜郭へ攻め込む作戦です。

それに対して、箱館政府から土方歳三が出陣し、最重要の要衝・二股口ふたまたぐちを守りました。

地理院地図より作成

二股口の戦いは2回繰り広げられました。


・4月13日~14日 第1次二股口の戦い 

・4月23日~24日 第2次二股口の戦い 


どちらの戦いも5倍程の勢力を有する新政府軍に対し、銃を撃ちつづけて撃退に成功し、

土方歳三は要衝を守り続けます

蝦夷地にきてからの土方歳三は連戦連勝。

常勝将軍としての名を高めました

しかし、ほかの箱館政府軍は敗北し、新政府軍の箱館接近を許してしまいます。

このため、土方歳三は無念にも撤退を余儀なくされました。

(完全に箱館に入られると退路がなくなってしまうためです)

新政府軍の箱館総攻撃が開始 土方歳三が一本木関門に死す

地理院地図より作成

明治2年(1869)5月11日午前3時。

新政府軍が箱館市中へ一斉攻撃を仕掛けてきました。

最初の舞台は箱館港で海からの攻撃でした。

1時間後の午前4時。

新政府陸軍はひそかに箱館山の裏側から上陸を開始し、奇襲をかけます。

箱館山を守っていたのは新選組でしたが、気が付いた時には、時すでに遅し・・・。

新選組は抵抗するも力及ばず、北西にあった弁天台場へ籠城を余儀なくなれました。

この状況に土方歳三がわずか50名を率いて新選組救出のため、一本木関門へと出陣しました。

しかし、午前9時。

一発の銃弾が土方歳三の腹部を貫き、ついに命を落としてしまいました。

35歳という若さのことでした。

そして、7日後の5月18日に箱館政府が降伏し、戊辰戦争が集結しました。

箱館戦争図 右手奥の湾内に飛び出しているスペースが弁天台場 箱館戦争図 | 市立函館博物館デジタルアーカイブ (fun.ac.jp)

まとめ

以上、戊辰戦争最大の箱館戦争について簡単に解説しました。

箱館戦争では前半戦は土方歳三の活躍のおかげで、箱館・五稜郭を占拠し、箱館政府を樹立します。

しかし、新政府の優位の流れはとめることができず、明治2年(1869)には新政府軍の箱館総攻撃が開始。

その戦いの中で土方歳三はついに命を落とし、戊辰戦争は箱館政府の敗北という形で終結しました。

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