徳川家康の青年期を解説!桶狭間の戦で討死の今川義元との関係性は? 

徳川家康

前回に引き続き、徳川家康について解説します。

「家康の青年期と言えば人質!」と答えられる方は多いと思います。

でも「実際何してたの?」「人質って捕まってたの⁉」等あまり具体的なイメージが無い方も多いと思います。

この記事では、意外と曖昧な家康の青年期を解説していきます。

徳川家康 8歳で移住 今川義元の領地で生活

祖父に誘拐されて織田氏の人質となっていた家康は、今川義元に助けられます。

天文18年(1549年)、今川氏は太原雪斎を大将に安祥城を攻撃しました。

この時、織田信秀の息子信広(織田信長の兄)を生け捕りにしました。

そして、人質交換が実施されます。

織田氏側人質:家康 
今川氏側人質:織田信広

この人質交換により、竹千代は8歳で岡崎へ帰国をします。

岡崎の家来衆はとても喜びますが、義元から「義元が預かって後見する」と伝えられてしまいます…。

その後、家康は駿府へ行き、「少将宮町」というところに住むようになりました。

この時から岡崎城へは今川義元から城代を派遣されています…。
家来衆は苦労したと『三河物語』や『東照宮日記』に記載されています。

家康はと言うと、通説では人質として苦労したと言われますが、

最近は「人質ではなかった説」が有力です。

当時の家康は松平氏の当主になっていたため、当主自ら人質になることは無いからということみたいですね。また次の章以降で、詳しく記述しますが、今川氏親族衆にまでなっていることからも有力説となっています。

駿府での養育は、祖母にあたる華陽院があたっています。

竹千代の祖母、華陽院

また、臨済寺(静岡県静岡市葵区)において太原雪斎からの教育を受けたとも伝わっています。

太原雪斎は後には「雪斎が生きていれば桶狭間の敗戦はなかったろう」とまで言われた人物です。

現在の臨済寺の大書院内部には「竹千代御手習いの間」が残されています。

雪斎からは今川義元と同レベルの教育を受け、松平家当主として、また、戦国大名として大きく成長できる環境にあったと思います。

竹千代が太原雪斎から教育を受けたとされる臨済寺(静岡市葵区) 写真はWikipediaより引用

徳川家康 14歳で元服 結婚で今川氏・親族衆となる

弘治元年(1555年)3月、14歳になった家康は今川義元の加冠を受け、

関口氏純(親永)の理髪で元服しました。

↑こんなイメージ

義元の「元」の一字を与えられ、松平次郎三郎と名乗るようになります。

元服した家康は弘治2年(1556年)6月24日、政治デビューをしています。

母於大が創建した岡崎の大仙寺に改めて寺地を寄進し、殺生禁断、寺内・門前の竹木伐採どの特権を認める等の書状が残っています。

弘治2年か3年には関口氏純の娘、瀬名姫(後の築山殿)と結婚します。

瀬名姫は実家関口氏は今川氏の親族衆で家格が高く、

この結婚により家康は今川義元の親族衆になりました。

永禄2年(1559年)3月6日には2人の間に嫡男の竹千代(後の松平信康)も誕生しています。

元信と結婚した瀬名姫(後の築山殿)

一般的なイメージのように人質として酷い(厳しい)待遇だったのであれば、

義元が自身の名前を与えたり、親族衆にまで取り立てることはしないと思います

以下2つが大きく考えられます。

①西三河を本領にもつ、松平家当主の家康を自身でコントロールする狙い

②家康を高く評価していた

いずれにしても、徳川家康の青年期は教育も受けられ、良い環境で過ごしていたようです。

徳川家康 17歳で初陣

家康の初陣は、

弘治4年(永禄元年、1558年)2月5日で17歳でした。

義元に命じられて岡崎に帰り、寺部城(愛知県豊田市)の鈴木重辰を攻めました。

この働きに対する義元の評価は高かったようです。

松平氏の元の領地のうち、山中300貫の地を返し、腰刀も与えてもらっています。

家康はさらに、織田氏方の広瀬、挙母、伊保(愛知県豊田市)などの城を攻め、

石下瀬では水野信元(家康の叔父)とも戦っています。

徳川家康の活躍 大高城兵糧入れ

↑家康の大高城兵糧入れ

さらに、17歳の家康のとても有名な働きとして大高城兵糧入れがあります。

永禄元年(1558年)、織田信長が力をつけ、鳴海(愛知県名古屋市緑区)の近辺のあちこちに砦を設けて兵を配置していました。

これに対抗して今川氏方の大高城(愛知県名古屋市緑区)が非常に重要な役割を果たします。

しかし、敵地に近く、兵糧を入れることが難しい状況でした。

評議の結果、家康が兵糧入れを命じられ、敵軍の中を押し分けて、難なく小荷駄を場内へ運び入れたと言います。(『東照宮御日記』)

このあとも義元の命令より、寺部、梅津、広瀬などの城を攻撃して、駿府へ帰国しています。

徳川家康の桶狭間の戦い

初陣から順調に活躍を続ける家康でしたが、桶狭間の戦いが起こり、最大の転機を迎えます。
この頃には「松平元康」と名乗っていたようです。
桶狭間の戦いの主な流れは以下の通りです。

永禄3年(1560年)5月8日 今川義元 三河守に任じられる
永禄3年(1560年)5月12日 家康、駿府を出発
永禄3年(1560年)5月17日 池鯉鮒(愛知県知立市)に着陣
永禄3年(1560年)5月18日 家康、大高城への兵糧入れ
永禄3年(1560年)5月19日 家康 丸根の塁を攻めおとし、大高城へ入城(『信長公記』)
永禄3年(1560年)5月19日 今川義元、敗死
永禄3年(1560年)5月23日 岡崎城入城

大高城の守将に

永禄3年、三河守となった今川義元は、駿河・遠江・三河の軍勢4万騎あまりを引き連れて尾張に向かったと言います(実際は2万5千が有力?)。

家康はその先発部隊として参加していました。(『東照宮御日記』)

家康は、織田方の重臣佐久間守重が守る丸根砦(愛知県名古屋市緑区)を攻め落としています。

『三河物語』によると、この時、家康は家の子郎党のほとんどを殺したと記録されています。

この後、また大高城に兵糧米を多く搬入し、ここでも大活躍をしました。

また、義元はすぐに重臣の朝比奈泰能に命じて鷲津砦(愛知県名古屋市緑区)も攻め落としています。

そして、長い軍議の結果、

鵜殿長持が長い間守っていた大高城を家康が守ることになりました。

大高城は尾張国(織田方)との境界で非常に危険な城のため、軍議では、誰も勇んで手を上げる者がいなかったと言います。

そこに19歳の若さで抜擢された家康は

義元からの評価が非常に高かったのだろうと思います。


桶狭間の戦いの詳細はこちらの記事を参考にしてください。

桶狭間の戦いは奇襲作戦にあらず!戦いの真の姿と通説との比較を解説
桶狭間の戦いは小勢の信長軍が大軍の今川軍に立ち向かい勝利したとして著名です。信長が軍を迂回させ、休憩中の今川義元の本陣を奇襲し、大勝利したというのが通説でした。しかし、この通説はもう古いです!最新の研究では堂々たる「正面攻撃」で奇襲作戦ではないことが当たり前です。 今回は有名な桶狭間の戦いの真の姿を解説します。

義元の死を確認 岡崎城入城

家康が大高城に入城した同日の永禄3年5月19日、桶狭間(愛知県名古屋市緑区)にて、今川義元が敗死しました。

義元は首を討たれる際、毛利の左指を噛み切ったと言います。敗れたものの、武勇に優れた人物でした。

『尾州桶狭間合戦』

大高城を守っていた家康は義元の戦死を聞き、家臣から退陣を勧められるも、「確かな情報がない。城をあけて退去してしまったとして、誤報であれば義元にあわせる顔がない。さらに人の笑い者にされるから確実な情報を得るまでは退去しない」と言います。(『三河物語』)

非常に冷静な対応をしています。
しかし、水野信元から、浅井六之助(道忠)が使いにきて、退却を決心し、

大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町)まで退却します。

↑家康が退去した大樹寺

追手が迫り、自害を覚悟した家康ですが、大樹寺の住持に「厭離穢土欣求浄土」と太平の世を目指す教えを説かれ、何とか思いとどまったと言います。

↑大樹寺での戦い


そして、今川義元の敗死を知った駿河衆が岡崎城を開け放って退却。「捨て城ならば拾おう」と岡崎城に移りました。

徳川家康 今川氏と手を切る

さて、ドラマや小説などでは、桶狭間の戦いの後、すぐに元康は独立し、信長と同盟を結んでいることが多いです(清州同盟)。

史実では、1年程今川方として活躍しています。

西三河を中心に織田方の居城の挙母・梅ヶ坪。広瀬、沓掛を攻めており、織田方との同盟や独立の気配は見られていません。

動きが見られたのは、永禄4年4月11日 
元康は今川方の三河牛久保へ軍勢を出しました。

これに対し、今川氏真「今度松平蔵人(元康)敵対せしむ」(『牧野文書』)と書いているので、この時点をもって、反今川を鮮明にしたと考えられます。

一般的には、義元の弔い合戦を早くした方が良いと氏真に何度も進言するも、一向に動こうとせず、見限ったと言われています。
そこから「氏真は愚将だった」など伝わったようです。

実際には、上杉謙信の備えとして武田氏や北条氏への援軍のため、弔い合戦どころではなかったという事情があったので、氏真は必ずしも愚将とは言えません!

事実は定かではありませんが、家康がお世話になった義元のために「義元公の弔い合戦を!」と主張はしていたのだろうと思います。

今川氏真

まとめ

徳川家康は、8歳から19歳という思春期を今川氏の親族衆として過ごしました。初陣をはじめ、若くして活躍できた背景には、今川義元から大切に扱われたからだろうと思います。

桶狭間の戦いで、今川義元が死ぬと、今川氏として戦いながらも独立していくことになりました。

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