江戸時代を代表する文人であり、幕臣でもある大田南畝。
神童とよばれ、19歳に刊行した『寝惚先生文集』が大ヒットします。
下級武士のため、貧乏に悩むものの、文芸界では第一人者として君臨します。
しかし、老中・田沼意次の失脚により文芸界とは距離をおき、第二の人生をスタート。
幕臣として再起を図り、75歳まで現役で働きつづけた波乱万丈な人生でした。

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神童とよばれた文人・大田南畝
大田南畝は寛延2年(1749)3月3日に江戸の御徒町で誕生しました。
父は御家人(御目見え以下)という低い身分で、役目は御徒。
つまりは幕臣の歩兵で、給料は70俵5人扶持(≒330万円)という薄給の家でした。
そんな境遇でも、南畝は非常に優秀で、最初の師匠・多賀谷常安はその神童ぶりに驚き、自分の師匠である内山賀邸に学ぶように勧めたほどです。
幼ニシテ頴異、衆児ト遊喜スルヲ喜バズ 常ニ簡冊ヲ以テ翫具トナス 郷党目シテ神童トナス
(南畝の墓碑銘より)
内山賀邸は江戸六歌仙に数えられたほどの人物で、15歳で南畝が入門すると「コノ児マサニ大成スベシ」(『明詩擢材』)と予言しました。

コノ児マサニ大成スベシ
ここで、南畝と同じく天明狂歌の三大家と称される、唐衣橘洲と朱楽管江。
そして、平秩東作と出会い、南畝の一生に大きな影響を及ぼしました。

明和3年(1766)には更なる高みを目指し、漢詩界の第一人者・松崎観海に入門し、最初の著述、作詩用語辞典『明詩擢材』を発表。
さらに翌年の明和4年(1767)には、仲が良かった平秩東作に見せていた狂詩(こっけいな漢詩)のドラフトを須原屋市兵衛という版元が偶然目にして、どうしても出版したいと懇願してきました。
こうして、南畝の代表作である狂詩集『寝惚先生文集』が刊行されました。
これにより、江戸の狂詩大ブームを引き起こし、南畝は寝惚先生としてたちまち有名となりました。
貧乏と病気に悩まされた幕臣・大田南畝
順調に成長した南畝は、明和2年(1765)7月6日、17歳で御徒となり、御家人としての生活をスタートさせます。
明和8年(1771)23歳で里与という女性と結婚しました。
しかし、安永2年(1773)8月、10代将軍家治上覧の隅田川での水泳に参加し、表彰されたこと以外は、特に目立った成果はありません。

名声はあった南畝でも幕臣としては出世しておらず、父が残した莫大な借金も相まって、貧乏に相当悩まされました。
特に安永4年(1775)、南畝27歳のときの苦悩は大きかったです。
疥癬という皮膚病のため、9月から起き上がれなくなり、翌年春まで半年以上動けなくなってしまいました。
ただでさえ貧しい家計から医療費を支出するために無一文になることがしばしばでした。
その家計は友人・塙保己一の昇進祝いの品を贈ることができないほどだったといいます。

しかし、この現状に同情した朱楽管江たち友人は金銭的援助をしてくれました。
そのおかげで、安永5年(1776)3月には、回復の兆しがみえ、庭を歩けるようになります。
4月には病み上がりながら、将軍・家治の日光社参の際に、往復8日間(約390㎞)の御徒の役を勤めました。
そして、無事に立ち直り、安永9年(1780)には、長男・定吉を授かることができました。
狂歌による文人・大田南畝のさらなる飛躍
幕臣としては突出しないものの、文人・大田南畝はさらに飛躍していきます。
天明3年(1783)頃から南畝は吉原に3日に1回のペースで入り、吉原の人々や友人と狂歌(こっけいな和歌)を詠み、傾倒していきます。
そして、南畝は朱楽管江とともに『万載狂歌集』を出版し、狂歌でも江戸に大ブームも引き起こしました。

南畝は「四方赤良」の狂歌名で、さらに名声を高めました。
ちなみに、吉原通いは、南畝の収入が増えた訳ではなく、老中田沼意次の下で勘定組頭として活躍した土山孝之など裕福な狂歌仲間の援助があったためです。
こうした人物との交わりから、吉原・芸能界の知人が激増。
人気がますます高まり、出版も増加していきます。
そのため、生活の全てを文芸に奪われることになりました。
そして、旺盛な制作活動をこなし、松葉屋の振袖新造、三保崎を天明6年(1786)7月15日に身請けしました。
(身請け後は、お賤と名を改めます)
具体的な金額はわかりませんが、数年の年季を残していたため、相当な金額だったと思われます。
また、身請け後は妾となるため、家族とは一緒に暮らせません。そこで、妾用の部屋を建て増しする費用も必要でした。
幕臣としては出世していなかった南畝ですから、土山孝之から援助を受けていたのでしょう。
(執筆料も増えてきたであろう時期ではあります)
しかし、1か月後、南畝の生活に暗雲が立ち込めました。
田沼意次の失脚による大田南畝の文芸界との絶縁
天明6年(1786)8月27日、南畝38歳のとき。
田沼意次が老中を罷免され、田沼派の粛清が始まりました。

その粛清対象者に、南畝のスポンサーだった勘定組頭の土山孝之がいました。
南畝は土山と懇意にしていたため、仲間とみなさ、同罪とされる可能性がありました。
結果的には、南畝に害はおよびませんでしたが、この時から文芸活動を停止して、狂歌界と絶縁しました。
天明7年(1787)正月に「閑ニ投ジテ」と南畝自身が詠んでいることから強い決意があったようです。
そして、南畝の不安が的中したように、松平定信を中心とした幕府の取り調べが厳しくなりました。
寛政元年(1789)に恋川春町が取り調べに進退を窮して自ら命を絶ち、
寛政3年(1791)には山東京伝が手鎖の刑、
蔦屋重三郎が身代半減とされたことが有名で、文芸界は火が消えたように静まり返りました。
期せずして、南畝は自らその先頭をきったことになったのです。

幕臣として 大田南畝の第二の人生
文芸界と絶縁してから、5年たった寛政6年(1794)。
小禄ながら御徒の職務を全うしていた南畝は、46歳で第二の人生をスタートします。
この年に学問吟味(幕府の人材登用試験)を受けることにしたのです。
ただ、多くの受験生は青少年で、初老の南畝は異彩をはなっていたようです。
同学ノ少年俊秀多シ
嘲ル莫レ斑白経ヲ解スルコト難キヲ(『初場即事』)
南畝自身の門下生も一緒に試験を受けています。
試験内容は『論語』『小学』『詩経』と面接という内容でした。
結果、南畝は御目見得以下の中で首席となり、銀10枚の褒美を得ました。
ただ、すぐには登用されず、
寛政8年(1796)11月に、幕府の支出や国郡の調査をつかさどる「支配勘定」にようやく昇進しました。
部下が7人つき、100俵5人扶持(≒440万円)に加増されました。
しかし、すぐに順風満帆な人生とはいかず、
寛政10年(1798)3月11日に、妻の里与が44歳で没しました。
大田家は50歳の南畝と19歳の長男・定吉の2人だけの寂しい家庭になってしまったのです。
(寛政5年に妾のお賤は他界していました)
しかも、定吉はいまだに職につけていないため、まだまだ隠居はできず、頑張らないといけません。
寛政11年(1799)1月16日、南畝51歳の時。
大坂銅座への出役を命じられました。
上方見物ができ、収入も増えるため、人気の役です。
勘定所勤務2年余りでの任命は異例だったため、南畝の才覚が認められたのです。
しかし、急遽『孝義録』の編纂を命じられました。

この頃、幕府は民衆の思想主導として、良い行いをまとめた書籍を出版しようとしていました。
ただ、思うように進まず、南畝の文芸家としての力が必要となったようです。
南畝にとっては、久々の文筆の仕事で非常に楽しかったと思われ、自宅で毎月「和文の会」を開きました。
そして、幕府の期待通り、50巻の『孝義録』が出版でき、報奨として銀10枚を与えられました。
このあとも南畝は活躍を続け、100俵7人扶持(≒470万円)に加増されます。
大坂/長崎への栄転から一転挫折

享和元年(1801)1月11日、51歳の南畝は大坂銅座行きを命じられました。
2年越しに実現したのです。
銅座は重要な輸出品である銅を司る役所です。
人が少なく非常に忙しいですが、南畝は優秀な能吏ぶりを発揮しました。
さらに、清廉潔白な役人としても有名でした。
大坂銅座では、贈り物が多く、たいていの生活用品が貰い物で間に合うほどだったようですが、
南畝が何度も断るので、「あまりにも潔白すぎる」との評価を受けています。
享和2年(1802)、無事に役目を終えた南畝は銀7枚を与えられ、再び江戸の支配勘定勤務に戻りました。

寛政の改革の緊張が緩み始めたこともあり、享和3年(1803)にはやめていた、狂歌を再び始めます。
朱楽管江や唐衣橘洲は他界しており、南畝は非常に貴重な存在となっており、姫路藩主・酒井忠道主催の詩会に呼ばれたりと、
幕臣としても文芸家としても順調な時期でした。


さらに、文化元年(1804)6月18日、56歳となった南畝は長崎奉行所への赴任を命ぜられました。
輸出入が多く、別途収入が多いので、誰もがうらやむ栄転でした。
しかし、旅の疲れもあり、9月に長崎に到着してから1か月以上病気で寝込んでしまいました。
それでも体に鞭を打ち、通商許可を求めるロシアのレザノフと会うなど、今までと変わらず、真面目に役目を果たしました。

文化2年(1805)には無事に役目を終え、江戸に帰り、変わらず役所勤めを続けます。
しかし、文化5年(1808)12月、突如として、多摩川巡視を命じられました。
これは堤防の状態などをチェックする役目なので、冷たい多摩川の中を歩き回らないといけません。
12月20日は大雪と大風だったようで、南畝も辛さを吐露しています。(「くるしき事いはんかたなし」)
しかも、大晦日と元日を休んだくらいで、3月いっぱい走り回って調査をしました。
このとき、既に南畝は60歳となっており、2人の孫もいるため、普通は隠居しています。
嫡男の定吉が任官できないため、働き続けるしかなかったのですが、
それはさておき、高齢者をわざわざ冬の川に入る命令を出したのは、少し悪意を感じます。
理由は定かではありませんが、大坂・長崎の栄転や大名との交際など南畝の才覚を妬んだものではないでしょうか。
老衰・大田南畝最期の日
文化7年(1810)、南畝は62歳となりました。
この時になると歯は5本を残すだけとなっていますが、嫡男・定吉は未だに役につけず、南畝は変わらず支配勘定のまま働き続けます。
今朝右の上顎の歯落たり、のこる所わづかに上に三ツ下に二ツなり(『調布日記』)
定吉の出仕が決まったのは、文化9年(1812)のことでした。
南畝64歳、定吉33歳のことです。
ただ、定吉はすぐに心を病んで、出仕できなくなり、南畝は結局、隠居はできません。
大田蜀山は独子あり。父の勤功によりて御勘定見習に召しだされしが、幾程もなく
乱心して遂に廃人になりたり。但嫡孫あるのみ(滝沢馬琴『後の為の記』)
文政元年(1818)2月18日、70歳になった南畝は出勤途中に神田橋で転んでしまいます。
この年齢になっても毎日14丁(約1.4㎞)の距離を通っていたところでした。
8月10日には、吐血し、以来もとの健康状態には戻らなかったといいます。
もとの健にたちかへるべくもあらず(大田南畝『奴凧』)
文政5年(1822)3月3日、自宅の二階からより落ちてケガをしました。
それでもずっと病床にいたわけではなかたようで、芝居を見に行ったりしていたようです。
そして、ついに文政6年(1823)4月6日、南畝75歳に老衰でこの世を去ったのです。
まとめ
以上、大田南畝の波乱万丈な人生について紹介しました。
みづのとの未の年は宝暦の 十有五にて学に志す
生きすぎて七十五年喰いつぶす かぎり知られぬ天地の恩
南畝最期の年に詠んだ詩がその一生を物語っています。
非常に優秀な南畝は寝惚先生としてすぐに有名になります。
しかし、幕臣としては目立った成果はなく、46歳でやっと出世し始めました。
以降は、苦労しながら生涯現役として75歳まで働き続けた人生でした。
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