江戸流行の狂歌とは?和歌・短歌・俳句・川柳との違いと天明狂歌の三大家

江戸時代

蔦屋重三郎は蔦唐丸つたのからまるとして狂歌をたしなんでいました。

この江戸時代で大ブームを起こした狂歌とは何でしょうか?

和歌、短歌、俳句、川柳など似たものが多く混乱するため、この記事ではその違いを解説します。

また、狂歌ブームをけん引した天明狂歌の三大家についても紹介します。

江戸大ブームの「狂歌」とは何か?「和歌」「短歌」「俳句」「川柳」との違いは?

江戸時代中期の江戸で大ブームを起こした、「狂歌」とは何でしょうか?

狂歌とは
通常の和歌とは異なる歌
  • 意味そのものに面白味がある歌
  • 用いる言葉のあり方が、和歌と異なる
    →結果、面白味があるのできあがり
  • 用いる修辞のあり方が、和歌と異なる
    →結果、面白味がある歌のできあがり

江戸狂歌研究会 牧野悟資『狂歌とその歴史』より編集

狂歌とは上記のように定義できるのですが、ピンとこないかもしれません・・・。

それは狂歌と同じようなジャンルに、「和歌」「短歌」「俳句」「川柳」があるからだと思います。

混乱を避けるために、これらとの違いを以下の表にまとめました。

他にも違いはありますが、プロの読み手ではない限り、表の記載を抑えておくだけでOKです。

つまり、狂歌は和歌の一部で、「江戸中期に人気を博し、社会風刺をした面白味のある歌」といったイメージですね。

狂歌の例

白川の 清きながれに 魚すまず にごる田沼の 水ぞ恋しき

(①魚が白川の清流よりも濁った田や沼を恋しがっている様)
(②白河藩出身の松平定信の改革の潔癖さに対する息苦しさを、自由であった田沼時代への恋しさを掛け合わせている)

詠み人知らず(誰が詠んだか不明)

世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといふて 夜るもねられず

(松平定信が旗本・御家人に熱心に文武を奨励したことを、蚊の羽音のうるささに例えて皮肉った)

大田南畝

狂歌の「連」とは?

狂歌を楽しむ人々は、一人で詠んでいたわけではありません。

グループを組織して楽しんでいたのです。

このグループをれんと呼びました。

つまり、「連」とは狂歌サークルのことです。

「連」は多くありましたが、天明期(1781~1789年)に有力な3つの「連」が起こりました。

その時期と合わせて天明狂歌の三大家と言われました。

天明狂歌の三大家① 唐衣橘洲の四谷連(唐衣連)

一つ目の「連」が唐衣橘洲からごろもきっじゅう四谷連(唐衣連)です。

この橘洲が天明3年(1783)に『狂歌若葉集』を編纂・出版することで、

江戸市中で狂歌が爆発的ブームを起こしました。

唐衣橘洲
  • 狂名:唐衣橘洲
  • 本名:小島恭従(のち謙之)
  • 通称:源之助
  • 身分:士分 / 徳川御三卿・田安家の小十人頭
  • 生誕・死没:寛保3年(1743)~享和2年(1802)
  • 代表作:『狂歌若葉集』(天明3年)

橘洲は徳川御三卿の序列第一位・田安家の家臣です。

身分としては立派な士分(武士)です。

若くから内山賀邸の塾に入り、和学や漢学を学びました。

その流れで、和歌の余技として狂歌を口ずさむようになったようです。

(師匠・内山賀邸は後に江戸の六歌仙に選ばれています)


明和6年(1769)には四谷の自邸にて江戸狂歌初の狂歌会を開催。

天明3年(1783)には『狂歌若葉集』を編纂・出版し、天明5年(1785)頃には四谷連(唐衣連)を設立しました。

周囲からは一目置かれるようになり、天明狂歌の重鎮として三大家の一人となりました。

天明狂歌の三大家②朱楽管江の朱楽連

二つ目の「連」が朱楽管江あけらかんこう朱楽連です。

「あけらかんこう」は「あっけらかんと」をもじった名前です。

管江は、天明3年(1783)に『万載狂歌集まんざいきょうかしゅう』を四方赤良よものあからと共同で編纂・出版します。

唐衣橘洲の『狂歌若葉集』と同年のことで、同じく江戸市中に狂歌ブームを起こしました。

朱楽管江
  • 狂名:朱楽管江
    →「あっけらかんと」をもじる
  • 本名:山崎景基(のち景貫)
  • 通称:郷助
  • 身分:士分 / 御家人(幕臣)
  • 生誕・死没:元文5年(1740)~寛政10年(1799)
  • 代表作:『万載まんざい狂歌集』(天明3年)、『狂言鶯蛙集きょうげんおうあしゅう』(天明5年)

管江は御家人で江戸の市谷二十騎町に住んでいました。

下級武士ではありますが、身分は立派な士分です。

唐衣橘洲や四方赤良と同様、内山賀邸の塾に入り、和歌を学んでいました。

同門である橘洲と赤良に誘われて安永期(1772~1781年)はじめ頃から狂歌を始めます。

そして、妻で狂歌師でもある節松嫁々ふしまつのかかと共に朱楽連を設立しました。


天明3年(1783)に四方赤良とともに『万載狂歌集』を編纂・出版したことで、江戸に狂歌大ブームをおこしましたが、

自身の朱楽連からも『狂言鶯蛙集きょうげんおうあしゅう』などを出版し、三大家の一人に数えられます。

天明狂歌の三大家③四方赤良の四方連(山手連)

三つ目の「連」は四方赤良よものあから四方連(山手連)です。

四方赤良はたくさんの顔・名前をもつ人物で、江戸を代表する文人でした。

号を蜀山人しょくさんじん、狂詩名を寝惚先生ねぼけせんせい、戯作名を山手馬鹿人やまてのばかひとなどです。

四方赤良(大田南畝)
  • 狂名:四方赤良よものあから
  • 本名:大田ふかし
  • 号:南畝なんぼ / 蜀山人しょくさんじ
  • 狂詩名:寝惚先生ねぼけせんせい
  • 通称:直次郎、のち七左衛門
  • 身分:士分 / 御家人(幕臣)
  • 生誕・死没:寛延2年(1749)~文政6年(1823)
  • 代表作:『万載まんざい狂歌集』(天明3年)

赤良は御家人で江戸の神楽坂の西、牛込仲御徒町に住んでました。

15歳で内山賀邸の塾に入り、唐衣橘洲や朱楽管江の同門となります。

管江同様、下級武士ではありますが、身分は立派な士分です。

赤良を一躍有名にしたのは、明和4年(1767)に19歳で出版した狂詩集『寝惚先生文集』でした。


明和6年(1769)頃から狂名を「四方赤良」と号しはじめ、橘洲と同じように、自身で狂歌会を開催し、四方連(山手連)を設立し、活動を開始しました。

すでに江戸文化界の有名人だった赤良は、天明3年(1783)に朱楽管江とともに『万載狂歌集』を編纂・出版して、江戸に狂歌大ブームをおこします。

こうして、四方赤良も三大家の一人に数えられるようになりました。

まとめ

以上、江戸時代の狂歌について紹介しました。

狂歌は江戸時代中期に大ブームを起こした文化です。

改めてまとめると以下のようになります。

狂歌とは
通常の和歌とは異なる歌
  • 意味そのものに面白味がある歌
  • 用いる言葉のあり方が、和歌と異なる
    →結果、面白味があるのできあがり
  • 用いる修辞のあり方が、和歌と異なる
    →結果、面白味がある歌のできあがり

→もっとまとめると・・

狂歌は和歌の一部で、「江戸中期に人気を博し、社会風刺をした面白味のある歌」といったイメージ

また、この大ブームをけん引した人物・連(グループ)が3家あり、天明狂歌の三大家とよばれました。

天明狂歌の三大家
  • 唐衣橘洲の四谷連(唐衣連)
  • 朱楽管江の朱楽連
  • 四方赤良の四方連(山手連)

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