蔦屋重三郎は蔦唐丸として狂歌をたしなんでいました。
この江戸時代で大ブームを起こした狂歌とは何でしょうか?
和歌、短歌、俳句、川柳など似たものが多く混乱するため、この記事ではその違いを解説します。
また、狂歌ブームをけん引した天明狂歌の三大家についても紹介します。
江戸大ブームの「狂歌」とは何か?「和歌」「短歌」「俳句」「川柳」との違いは?
江戸時代中期の江戸で大ブームを起こした、「狂歌」とは何でしょうか?
狂歌とは上記のように定義できるのですが、ピンとこないかもしれません・・・。
それは狂歌と同じようなジャンルに、「和歌」「短歌」「俳句」「川柳」があるからだと思います。
混乱を避けるために、これらとの違いを以下の表にまとめました。
他にも違いはありますが、プロの読み手ではない限り、表の記載を抑えておくだけでOKです。
つまり、狂歌は和歌の一部で、「江戸中期に人気を博し、社会風刺をした面白味のある歌」といったイメージですね。
狂歌の「連」とは?
狂歌を楽しむ人々は、一人で詠んでいたわけではありません。
グループを組織して楽しんでいたのです。
このグループを「連」と呼びました。
つまり、「連」とは狂歌サークルのことです。
「連」は多くありましたが、天明期(1781~1789年)に有力な3つの「連」が起こりました。
その時期と合わせて天明狂歌の三大家と言われました。
天明狂歌の三大家① 唐衣橘洲の四谷連(唐衣連)
一つ目の「連」が唐衣橘洲の四谷連(唐衣連)です。
この橘洲が天明3年(1783)に『狂歌若葉集』を編纂・出版することで、
江戸市中で狂歌が爆発的ブームを起こしました。
橘洲は徳川御三卿の序列第一位・田安家の家臣です。
身分としては立派な士分(武士)です。
若くから内山賀邸の塾に入り、和学や漢学を学びました。
その流れで、和歌の余技として狂歌を口ずさむようになったようです。
(師匠・内山賀邸は後に江戸の六歌仙に選ばれています)
明和6年(1769)には四谷の自邸にて江戸狂歌初の狂歌会を開催。
天明3年(1783)には『狂歌若葉集』を編纂・出版し、天明5年(1785)頃には四谷連(唐衣連)を設立しました。
周囲からは一目置かれるようになり、天明狂歌の重鎮として三大家の一人となりました。
天明狂歌の三大家②朱楽管江の朱楽連
二つ目の「連」が朱楽管江の朱楽連です。
「あけらかんこう」は「あっけらかんと」をもじった名前です。
管江は、天明3年(1783)に『万載狂歌集』を四方赤良と共同で編纂・出版します。
唐衣橘洲の『狂歌若葉集』と同年のことで、同じく江戸市中に狂歌ブームを起こしました。
管江は御家人で江戸の市谷二十騎町に住んでいました。
下級武士ではありますが、身分は立派な士分です。
唐衣橘洲や四方赤良と同様、内山賀邸の塾に入り、和歌を学んでいました。
同門である橘洲と赤良に誘われて安永期(1772~1781年)はじめ頃から狂歌を始めます。
そして、妻で狂歌師でもある節松嫁々と共に朱楽連を設立しました。
天明3年(1783)に四方赤良とともに『万載狂歌集』を編纂・出版したことで、江戸に狂歌大ブームをおこしましたが、
自身の朱楽連からも『狂言鶯蛙集』などを出版し、三大家の一人に数えられます。
天明狂歌の三大家③四方赤良の四方連(山手連)
三つ目の「連」は四方赤良の四方連(山手連)です。
四方赤良はたくさんの顔・名前をもつ人物で、江戸を代表する文人でした。
号を蜀山人、狂詩名を寝惚先生、戯作名を山手馬鹿人などです。
赤良は御家人で江戸の神楽坂の西、牛込仲御徒町に住んでました。
15歳で内山賀邸の塾に入り、唐衣橘洲や朱楽管江の同門となります。
管江同様、下級武士ではありますが、身分は立派な士分です。
赤良を一躍有名にしたのは、明和4年(1767)に19歳で出版した狂詩集『寝惚先生文集』でした。
明和6年(1769)頃から狂名を「四方赤良」と号しはじめ、橘洲と同じように、自身で狂歌会を開催し、四方連(山手連)を設立し、活動を開始しました。
すでに江戸文化界の有名人だった赤良は、天明3年(1783)に朱楽管江とともに『万載狂歌集』を編纂・出版して、江戸に狂歌大ブームをおこします。
こうして、四方赤良も三大家の一人に数えられるようになりました。
まとめ
以上、江戸時代の狂歌について紹介しました。
狂歌は江戸時代中期に大ブームを起こした文化です。
改めてまとめると以下のようになります。
また、この大ブームをけん引した人物・連(グループ)が3家あり、天明狂歌の三大家とよばれました。
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