明治2年(1869)4月9日。
新政府軍がついに蝦夷地へ上陸しました。
新政府軍を迎え撃つため、土方歳三は要衝の二股口に出陣。
二股口は守り切るも他の要衝を突破され、泣く泣く撤退します。
しかし、その後もゲリラ戦を展開するなど戦いつづけます。
そして、5月11日。
新政府軍による箱館総攻撃が開始。
ついに土方歳三は一本木関門にて銃弾に倒れ、35歳の生涯を閉じることとなりました。
この記事では、新政府軍上陸から土方歳三が戦死するまでの33日間を解説します。
新政府軍の蝦夷地上陸と土方歳三の出陣
明治2年(1869)4月9日。
青森を出航した新政府軍はついに蝦夷地へ上陸しました。
上陸地は江差北方の乙部。
直接箱館へ上陸・攻撃しなかったのは、箱館政府の艦隊3隻が港を固めていたためと考えられます。
新政府軍は上陸地・乙部から3ルートに分けて侵攻を開始していきました。
新政府軍の侵攻ルートは以下の3ルートです。
- 松前口部隊:海岸線に沿って進む
- 木古内口部隊:江差から内陸部を進む
- 二股口部隊:半島を最短距離で進む
対する箱館政府はそれぞれ下記メンバーが守備に回ります。
- 松前口守備:松前奉行所・遊撃隊
- 木古内口守備:陸軍奉行・大鳥圭介
- 二股口守備:陸軍奉行並・土方歳三
土方歳三の強さが証明された2度の二股口の戦い
土方歳三は以下の日程で二股口へ到着しました。
9日 五稜郭を出発
11日 台場山に到着し、本陣とする
12日 天狗岳に前線基地を置く
実は、この時すでに土方歳三は負けを悟っていたと思われます。
それでも武士として戦う気概があふれています。
それは大野右仲と大島寅雄に語った言葉に表れています。
我が兵には限りがあり、敵には限りがない。いったんは勝ったとしても、最後には必ず負けてしまう。それは誰でもわかることです。しかし、自分が総督に任命されて負ければ、それは武士としての恥である。身をもって任務に殉じるだけだ
『函館戦記』(意訳)
自分のまかされた場所だけは武士の誇りにかけて命がけで守り抜く!
第一次二股口の戦い 土方歳三の勝利
【参加メンバー】
箱館政府(土方軍):伝習隊・衝鋒隊 130名
新政府:第一次兵・第二次兵 600名
13日午後3時過ぎ、ついに戦闘が開始しました。
前線基地の天狗岳は陥落しますが、台場山では準備万端。
必死に抵抗する土方軍はとにかく撃ちまくります。
日没に雨が降っても上着で火薬を濡らさないように撃ちつづけました。
しかし、多勢に無勢。
力では敵わないので、土方歳三は計略をめぐらしました。
【土方歳三の計略】
- 兵を25名集める
- 川をわたって、山を越え、奇襲
奇襲により新政府軍は敗走します。
結局、翌14日7時ころまで16時間もの攻防がつづきました。
この戦いで土方軍は3万5,000発あまりの弾丸を使ったと伝わっています。
土方軍に加わっていたフランス人のホルタンは、ブリュネへその状況を以下のように報告しています。
一六時ノ間戦ヒ(中略)味方ノ人、其顔ヲ見ルニ、火薬ノ粉ニテ黒クナリ恰モ悪党ニ似タリ
『苟生日記』
第二次二股口の戦い 土方歳三の勝利
【参加メンバー】
箱館政府(土方軍):伝習隊・衝鋒隊+伝習士官二小隊 200名
新政府:第一次兵・第二次兵+第三次兵 800名
4月23日午後7時ころ、兵力を増員した新政府軍は再び台場山への攻撃を開始しました。
新政府軍は煙をあげ、ラッパを吹き、大声を上げながら進軍してきました。
これに土方軍は一時動揺します。
しかし、土方歳三は「諸子駭勿カレ且退ク者アレハ是レヲ斬ル」(『島田魁日記』)と指示します。
冷静になれ!退く者は斬る!
冷静さを取り戻した土方軍は、前回よりもさらに激しい銃撃戦を演じます。
土方軍は鉄砲を川の水で冷やしながら撃ちつづけたほどでした。
結果的に新政府軍は土方軍を退けられず、土方歳三は2度とも新政府軍の侵攻に勝利しました。
土方歳三の強さが証明された戦いとなりました。
土方歳三 二股口より無念の撤退
しかし、4月29日。
箱館政府軍が矢不来戦に敗戦したことで、戦況が変化し、土方軍は撤退を余儀なくされました。
矢不来は二股口より東側。
このまま二股口に滞在していると背後から攻撃される危険が生じるためです。
無念にも、陣営を引きはらい、五稜郭へと退却しました。
土方歳三の最期~箱館・一本木関門に死す~
5月1日に五稜郭へ戻った土方歳三ですが、戦意は衰えていませんでした。
すぐに新選組に対して夜襲の命を出しています。
新政府軍は七重浜におり、命令に従い、連日のように夜襲をかけました。
一方の新政府軍は着々と箱館総攻撃へ向けて準備をします。作戦は以下の通りです。
【新政府の三面作戦】
- 陸軍北方部隊・・七重浜、北海道東照宮から五稜郭を目指す
- 陸軍奇襲部隊・・箱館山を海側からよじのぼり箱館山の制圧。五稜郭を目指す
- 海軍・・陸軍の攻撃を応援
箱館総攻撃開始
いよいよ決戦の日。
明治2年(1869)5月11日午前3時。
新政府軍は箱館市中へ一斉攻撃を仕掛けました。
きっかけは新政府軍の朝陽丸と丁卯丸の箱館市中への砲撃でした。
これに反撃したのが、幡龍丸。
砲撃戦は熾烈をきわめました。
新政府軍の箱館山奇襲
5月11日午前4時。
場所は変わって箱館山方面。
新政府陸軍はひそかに箱館山裏側につき、上陸を開始。
峻険な箱館山をよじのぼりはじめました。
夜が明けてきたころ、箱館山にいた新選組や伝習士官隊がやっと人影を確認しました。
しかし、時すでに遅し。
撃退させることができず、弁天台場(砲台)に新選組ら200名が籠城することとなりました。
そして、箱館山は占拠した新政府軍は箱館市中に向けて猛攻をしかけました。
土方歳三 新選組救出のため最後の出陣 ~一本木関門に死す~
猛攻に耐えかねた箱館政府軍は反撃しながらも後退をつづけ、一本木関門まで敗走しました。
そこに新選組の窮地を救うために50名の額兵隊とともに出陣した土方歳三が馬を走らせ、檄を飛ばしました。
我この柵にありて退く者は斬る!
午前9時ころ。
箱館港で戦況が大きく動きました。
幡龍丸の一弾が朝陽丸の火薬庫に命中して見事朝陽丸を沈没させたのです。
朝陽丸はすさまじい轟音とともに黒煙を噴き上げました。
この機、失すべからず!
土方歳三は絶叫しました。
しかし、その時一発の銃弾が、土方歳三の腹部を貫きました。
享年35歳。
盟友・近藤勇が亡くなった年齢と同じでした。
土方歳三の辞世の句
よしや身は 蝦夷とふ島辺に 朽ちぬとも 魂は東の君やまもらむ
箱館戦争にて死を覚悟していた土方歳三は5月5日に小姓の市川鉄之助に自身の写真とともにこの句を託しました。
「東の君」こと徳川家に忠誠を尽くしつづけた土方歳三の気持ちが詠まれています。
まとめ
以上、土方歳三の最期までの戦いについて解説しました。
新政府軍の進軍から箱館を守った二俣口は敵を撃退し、一切退くことなく戦いつづけました。
箱館政府軍では唯一負け知らずで「常勝将軍」の名を確立しました。
しかし、新政府軍の圧倒的な勢力に五稜郭に退却を余儀なくされます。
運命の5月11日。新選組を救出するために一本気関門まで出陣しますが、1発の銃弾に倒れ、35歳の生涯を閉じたのです。
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