意外と知らない今川義元を解説。家督争い・花蔵の乱を勝抜いた武将!

徳川家康

「今川義元」と聞くと多くの方が愚鈍で”軟弱武将”というネガティブなイメージをもたれるのではないでしょうか?

・織田信長に負けた弱い武将

・公家みたい、麿、おじゃる 等…

しかし実際は”軟弱”とは程遠く、家督争いをはじめ多くの戦いを勝ち抜き

「海道一の弓取り」と呼ばれた戦国最強武将です。

今回は、義元の軍師・太原雪斎だいげんせっさいとの出会いや花蔵の乱と呼ばれた激しい家督争いを中心に意外と知られていない今川義元の人物像を解説していきます!

今川義元の家族

今川義元は駿河・遠江の守護である今川氏親の5男として永正16年(1519年)に誕生しました。

幼名は方菊丸ほうぎくまる

母は氏親の正室で女戦国大名として有名な寿桂尼じゅけいにです。

他にも5人の男兄弟と7人の姉妹がいて、寿桂尼は3男3女を儲けたと言われています。

↑義元の母 寿桂尼

今川氏親うじちかが家督争いを回避するために、嫡男・氏輝うじてると次男・彦五郎のみを今川館へ残し、3・4・5男の3人を寺に入れています

最終的には3男・玄広恵探げんこうえたんと5男・義元で花蔵の乱という壮絶な争いが起きるのですが…。

これは氏親自身、家督相続の際に苦労したトラウマがあるためです。

氏親15歳の頃、後見人だった小鹿範満が居直りを図ろうとしたようです。
(いつの時代も一度権力の座についたら自ら下りるのは難しいようで…)

その時に小鹿範満を襲撃し、氏親を当主の座につけた活躍をするのが、氏親の叔父で、有名な

伊勢新九郎盛時(北条早雲)でした。

↑義元の父、氏親を助けた伊勢新九郎盛時(北条早雲)

話が少し逸れましたが、家督争い回避のために寺に入れられた義元は出生時点では戦国大名として活躍する道はおろか、当主の座につく道さえも閉ざされており、

戦国大名・今川義元の誕生は奇跡と言っても過言ではありません。

今川氏とは?

義元の詳細説明の前に超名門である「今川氏」について紹介します。

今川氏を知れば、義元がどれほど偉大かがわかりやすいです!

①足利一門である超名門・今川氏

・今川氏は室町将軍家の足利家から分かれた吉良氏の分流

足利一門の家格をもち、三管領家である細川、斯波、畠山と同格

・更に遡ると源氏であり、八幡太郎こと源義家が先祖

・初代室町将軍・足利尊氏からは以下の遺言になぞらえて伝えられている

「室町殿(足利氏)の御子孫たへなば(絶えなば)、吉良につがせ、吉良もたへなば、今川につがせよと仰せおかれたり」(「今川記」)

↑すなわち、足利将軍になりえる超名門家系です。

②「今川」は唯一の苗字

・6代室町将軍・足利義教から恩賞をもらう

・「”今川”という苗字は今後、惣領家のみが名乗ることを許す」という内容

・同時期に、今川氏一族が、在名を名乗るようになる(堀越氏、瀬名氏、小鹿氏など)

『父子自害して京都の御本意を遂られ、今川家数度の軍忠の功を御感の余り、惣領一人一名の御免許の御書、此時、範忠に下し給はる。普光院殿善山(六代将軍義教)乃御所の御時なり。此御書、唐家の重書の第一なり。其時より惣領の外は、今川と名乗事なし。』(「今川記)

以上のように、今川氏は足利将軍家と非常に関係が深かったです。

そのため、他の戦国武将と比べ、京都での人脈が広く、文化に対する造形が深かったのです。

【コラム】今川義元の有名な弟姉妹

瑞渓院ずいけいいん…後北条氏の3代目・北条氏康の妻。
義元の嫡男・氏真(うじざね)の妻・早川殿の母となる人物です。

②関口氏純室…徳川家康の正室となる築山殿(瀬名姫)の母。
 築山殿は義元の姪になり、義元と家康は非常に近い肉親だったと言えます。
 ※諸説ありなので真偽は不明です。

③今川氏豊うじとよ…尾張の那古野今川氏へ養子になる。
 尾張唯一の今川拠点・那古野城を織田信秀(信長の父)の謀略により奪われる失態を演じます。

今川義元の修行と師匠・太原雪斎との出会い

先ほどは今川氏・義元の家族について触れましたが、ここからは義元の若き修行の日々について紹介していきます!

4歳:善得寺へ入る

大永2年(1522年)、4歳の義元は善得寺に入れられました。

この時、義元の養育を任されたのが、九英承菊くえいしょうぎく、すなわち後に義元の軍師として大活躍する太原雪斎だいげんせっさいです。

【太原雪斎の出自】

・父方:庵原いはら氏。父は庵原左衛門尉さえもんのじょう。庵原郷(静岡市清水区庵原町)の国衆。
・母方:興津おきつ氏。母は興津藤兵衛とうべえの娘か姉妹。興津郷(静岡市清水区 JR興津駅周辺)の国衆。

両親ともに今川氏の重臣の家柄でした。

当時、雪斎は京都の建仁寺で修行しておりました。

雪斎をを見込んだ氏親から養育依頼があり、二度も断りながらも駿河へ戻り、引き受けています。

まさに「三顧の礼」で迎えたのですね。その時の様子がこちら↓

「芳髫年ちょうねんを補佐すべき其の仁なし。故に氏親公、使を遣して称呼すること三回なり。生縁の熟する処、忘れ難くして帰国しおわんぬ。氏親公芳髫年の進止を以て畢竟ひっきょう菊公に依頼す。国守の命は既に九鼎きゅうていにして法眷ほっけんの好みもまた千釣なり。俊拒するを得ずして世と低昂ていこうす。」(『護国禅師雪斎遠諱香語おんきこうご写』)

さて、義元は、雪斎から文字を習い、「四書五経」なども読むようになったと思われます。

また、「孫子」も読み、武芸にも励んでいたのかもしれません。

修行の日々が続く中、

大永6年(1526年)6月23日、義元が8歳の時、父・氏親がこの世を去ります。

葬儀は増善寺(静岡市葵区)で執り行われ、義元は久々に母・寿桂尼、兄の氏輝や玄広恵探と顔を合せます。
(葬儀に彦五郎と象耳泉奘は不参加でしたが理由はわかっていません…)

↓方菊丸(義元)が修行した善得寺

↓父・氏親の葬儀が執り行われた増善寺慈悲山増善寺 公式ホームページ – 今川氏親公の菩提寺 (zouzenji.net

12歳:「栴岳承芳」の誕生

享禄3年(1530年)、12歳となった義元に変化が起きます。

その年に雪斎の師である建仁寺の常庵龍崇じょうあんりゅうそうが駿府に下向してきたようで、義元を得度とくど(出家)させる機会だと考え、駿府行きました。

そして、龍崇の手で得度の式が執り行われ、

承芳しょうほうと号するようになりました。

↑義元と太原雪斎が修行した建仁寺。画像 Wikipediaより

僧となった義元は、その後、享禄5年(1532年)まで(14歳まで)に

雪斎も修行をした京都の建仁寺に入りました。

本格的に僧としての修行が始まり、名前も栴岳承芳せんがくしょうほうとなりました。

建仁寺での義元は漢詩文の能力を発揮します。

公家たちの評価も高く、交流が生まれ、

京都での人脈を広げることができました。

その後、雪斎と義元は妙心寺へ移り、更に修行へと身を投じていきました。

↑義元と太原雪斎が修行した妙心寺。画像 Wikipediaより

↓義元が京都で最初に修行した建仁寺建仁寺 The Oldest Zen Temple Kenninji

↓義元が京都で最後に修行した妙心寺日本最大の禅寺|京都花園 臨済宗大本山 妙心寺 公式サイト (myoshinji.or.jp)

駿河へ帰国

京都で修行をしていた義元は天文4年(1535年)7~8月に駿河へ帰国して善得寺に入っています。

【義元の寺移動歴】
善得寺 ⇒ 建仁寺 ⇒ 妙心寺 ⇒ 善得寺

帰国のきっかけは甲斐の武田信虎と駿河の今川氏輝が国境の富士郡で起こった軍事衝突でした。

政情不安定のため、氏輝が義元を呼び戻したようです。

その根拠と言われる記述が↓

【義元が駿河に帰国した記述】
「駿甲藩籬はんりに仍って、両刃みねを交え、つとに東山を辞して本寺に帰り、芳公・菊公本寺に住す」
(『護国禅師雪斎遠諱香語おんきこうご写』)

※芳公=栴岳承芳 、 菊公=九英承菊=太原雪斎

今川義元と玄広恵探の家督争い・花蔵の乱

駿河に戻った義元は、異母兄の玄広恵探との家督争いに勝利して

名門今川家の当主となりました。

乱は玄広恵探が「花蔵殿」と呼ばれていたため

「花蔵の乱」と言います。

当主・氏輝と彦五郎の”同日”死

天文5年(1536年)3月17日 当主氏輝・次兄彦五郎が突然死亡します。

当主のみならず当主控えまでもが同日に死亡するという不可解な事件です。

【氏輝・彦五郎に死に関する史料】

  1. 今月(三月)十七日、氏輝死去。同彦五郎同日遠行。(『為和集』)
  2. (三月)十七日、今川氏照(輝)・同彦五郎同時ニ死ス。(『高白斎記』)
  3. 此年四月十日、駿河ノ屋形御兄弟死去めされ候。(『妙法寺記』)
     ※3月17日が正しい

いずれも死因については何も書かれていません。

加えて、3記事とも今川氏以外・・、すなわち他国の人間が書いたものです。

今川氏内での記述は残っていません。

跡を継いだ義元にとっては不都合だったのか…、

”軟弱”さとは程遠い姿が義元だったように思えます。

ライバル・玄広恵探とは?

義元の争い相手、玄広恵探とはどのような人物だったのでしょうか?

永正4年(1517年)に誕生します。

母は今川氏親の重臣・福島くしまの娘です。 

※福島氏は「くしま」と読みます。

福島氏の中でも最も威勢を誇っていた高天神城の城主・福島助春と言われます。

義元同様、父の氏親に寺に入れられ、偏照寺(現・藤枝市花倉)で修行をしました。

花蔵殿と呼ばれていました。

名門・今川氏を支えてきた福島氏という強力なバックアップ。

また、2歳年長という自負にから、対抗意識が芽生えたと思われます。

この意識から国を二分する争いに発展していきます。

花蔵の乱の勃発

氏輝・彦五郎の死を受けて、遂に家督争いが勃発します。

↑乱の舞台となった花倉城跡。峻険な山にあった。画像 Wikipediaより

【花蔵の乱の経緯】

・天文5年(1536年)4月27日(『為和集』)~5月10日(『快元僧都記』)の間に乱勃発

・天文5年(1536年)5月25日未明、駿府合戦が勃発
 ⇒義元派が勝利。恵探派は久能山に退く。

・義元派の由比城が恵探派に攻められる

・天文5年(1536年)6月8日、駿河東部にて小田原の北条氏綱が義元支援のため出陣
 ⇒義元派・北条軍の勝利

・天文5年(1536年)6月10日、岡部親綱らが恵探派の方ノ上城を攻撃
 ⇒恵探派、花倉城へ撤退
 ⇒義元派が追撃、花倉城を包囲
 ⇒玄広恵探は逃げ続けるも、普門寺で自刃。享年20歳。

足利将軍より義元相続を認可

天文5年(1536年)4月27日~5月10日の間に乱が勃発していますが、

実は、5月3日付の手紙で時の将軍・足利義晴が義元への家督を承認したことがわかっています。

誰かは判明してないようですが、今川氏の誰かより事前申請があり、将軍が認可しています。

当時は手紙のやり取りにも時間がかかるので、

申請 ⇒ 返答

の間に乱が勃発したと思われます。

↑11代・足利将軍・足利義晴

既に今川氏内の大半が義元支持をしていて、申請をそのまま認可したようです。

花蔵の乱は義元相続の流れに

玄広恵探が抵抗したという構図となります。

花蔵の乱勃発時の寿桂尼

実母である寿桂尼はもちろん義元派でした。

ただ、乱の最中、不可解な動きをしております。

『高白斎記』の以下の記述があり、説が2分されています。

同五月廿四日、氏照ノ老母、福嶋越前守宿所へ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日未明ヨリ駿府ニ於テ戦。夜中福嶋党久能へ引籠ル。

①寿桂尼「恵探派」説

素直に考えると寿桂尼が恵探派側に「同心=同意、味方」して駿府で戦いが始まったと読めます。

福島氏が今川家にとって不可欠な重臣ため、

恵探派へ寿桂尼が味方したという考えですね。

②寿桂尼「義元派」説

・先々代の正室、先代の母として、説得に向かった。= 戦闘回避

・足利将軍の義元相続認可書類をもって、説得に向かった = 戦闘回避

・上記書類を見て驚いた福島氏は急いで戦闘を開始

⇒寿桂尼を福嶋邸に幽閉してしまった。

②の方が現実的且つ優勢だと思います。

『高白斎記』の文面では、恵探派と見えてしまいますが、

他国の人間が見聞きしただけで、事の詳細までは掴めなかった記述だと思います。

それに女戦国大名として政務をとっていた実母・寿桂尼が

他人の子を支援するとは考えられないです。

また、①説だと大きな裏切りのため、何かしらの処分があったのではないでしょうか?

でも寿桂尼はその後も重要な地位を保持し、

義元の死後、氏真の後見もしています。

寿桂尼の動きにより、具体化した花蔵の乱ですが、

結果は義元派の勝利となり、

戦国大名「今川義元」が誕生しました。

まとめ

”軟弱大名”のイメージの強い今川義元ですが、以上見てきたように一度は出家しながらも還俗し、壮絶な家督争いに勝利して当主の座につきました。

軟弱とは程遠い武将でした!

以下、まとめです。

  1. 今川氏の5男として生まれ、師匠・太原雪斎と修行する少年期。
  2. 長兄の当主・氏輝と次兄・彦五郎の死を受けて跡継ぎ候補となる。
  3. 花蔵の乱で玄広恵探に勝利し、「義元」と名乗り当主となる。

     ⇒戦国大名として躍進!

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