徳川幕府中興の祖である8代将軍・徳川吉宗は自分の血脈を残すため田安家・一橋家・清水家の「御三卿」を作りました。
「御三卿」は将軍家や御三家に跡継ぎがいなくなったときに養子を出して家を存続させる重要な役割をもちました。
吉宗自身が将軍に就任できた理由も紀伊和歌山藩主という「御三家」の家柄だったためです。
この記事では「御三卿」と「御三家」の違いやその序列について解説します。
御三家と御三卿の違い
「御三家」と「御三卿」は将軍家の跡継ぎの備えという共通の役割があります。
名称と役割が似ていますが、大きな違いが4つあります。
御三家の特徴
御三家は家康の息子が藩祖の尾張、紀伊、水戸藩の3藩のことをいいます。
設立時期は江戸時代初期(元和2年(1616)頃)に整備されたとされています。
徳川将軍家以外で唯一「徳川姓」を名乗ることを許された最高位の家格でした。
ただし、他の大名と同じく将軍家からは独立して「藩」として扱われたため、当主が不在になった場合、改易(異動)やお家取り潰しになる可能性はありました。
御三卿の特徴
御三卿は吉宗の息子と孫が開祖の田安、一橋、清水家の3家のことをいいます。
設立時期は江戸時代中期(延享2年(1745)~宝暦9年(1759))に整備されました。
御三卿は将軍家から領地を10万石ずつ与えられています。
しかし、あくまでも将軍の家族の一員としての待遇を受けたため、「藩」として扱われません。
そのため、当主不在の「明屋形」という状態でも問題ありませんでした。
御三卿 序列1位の田安家
御三卿の序列1位は吉宗の二男の宗武が興した田安家です。
(長男の家重は将軍家)
生まれた順で、序列が決定されています。
田安門内の屋敷に居住したため「田安家」と呼ばれました。
開祖の宗武は非常に優秀で、国学、和歌、服飾、能楽などに造詣が深かった人物です。
自身の能力に過信するあまり、兄の9代将軍・家重を軽んじ、欠点を列挙したため、大御所の吉宗から咎められた人物でもあります。
密かに将軍就任を狙っていたともいわれています。
結果、延享4年(1747)から3年間の謹慎処分を受けました。
序列1位ですが、田安家から将軍が輩出されることはありませんでした。
田安家出身者
松平定信
開祖 田安宗武の二男。
一橋治済(十一代将軍家斉の父)と田沼意次の画策により白河藩の養子となり、将軍候補の権利を失いました。
のちに老中となり、寛政の改革を実行しました。
田安亀之助
明治維新の後、徳川宗家16代当主・徳川家達となりました。
御三卿 序列2位の一橋家
御三卿の序列2位は吉宗の四男の宗尹が興した一橋家です。
(三男の源三は早世)
一橋門内の屋敷に居住したため「一橋家」と呼ばれました。
開祖の宗尹は二人の兄である家重と宗武とは違い、吉宗が将軍になってから生まれました。
つまり、生まれながらの「将軍の子」という気持ちが強かったと思われます。
一橋家から何とか将軍を出そうという強い思いが引き継がれていきました。
実際に2代目にあたる一橋治済は長男の家斉を将軍にするため、あちこちで画策をし、実現させています。
一橋家出身者
十一代将軍 徳川家斉
在位50年、子どもが50人以上いた将軍です。
十五代将軍 徳川慶喜
第9代水戸藩主・徳川斉昭の7男。
一橋家の養子となり、江戸幕府最後の将軍に就任しました。
御三卿 序列3位 清水家
御三卿の序列3位は9代将軍・家重の二男家好(吉宗の孫)が興した清水家です。
清水門内の屋敷に居住したため「清水家」と呼ばれました。
序列3位となると、ほぼ将軍候補の番が回ってくることはありません。
血脈が続かず、養子を重ね、当主不在の「明屋形」の時代が長かった家です。
清水家出身者
徳川昭武
第9代水戸藩主・徳川斉昭の18男。
慶応2年(1866)11月に20年間、明屋形となっていた清水家を相続しました。
兄の慶喜の代わりに渋沢栄一らとともに「パリ万博博覧会」に参加。
帰国後の1869年には水戸藩を相続し、最後の藩主として戊辰戦争に参加しました。
まとめ
以上、徳川吉宗が作った「御三卿」について解説しました。
御三卿は御三家と同じく、将軍家の跡継ぎの備えという共通の役割をもちました。
しかし、大きく4つの違いがありました。
御三卿の田安家・一橋家・清水家からは11代将軍・徳川家斉や15代将軍・徳川慶喜など有力な人物が多く輩出されました。
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