新選組の天才剣士・沖田総司の女性関係はどうだったのでしょうか?
他の隊士とは違い、女遊びはしなかったと伝わりますが、京都には総司が本気で愛し、愛された「内縁の妻」がいました。
また、総司にべた惚れして自分からプロポーズした「コウ」という女性もいました。
この記事では沖田総司に恋した2人の女性を紹介します。
沖田総司の容姿と性格
「内縁の妻」と「コウ」の紹介の前に、沖田総司の容姿と性格について証言をもとに確認します。
背が高くて色は浅黒い方で、少し猫背のように背を丸めていたが、よく笑う人だった。
(中略)ひら顔で目が細く、そうよな、ヒラメみたいな顔をしていたよ
(『佐藤俊宣談』)
丈の高い肩の張りあがった色の青黒い人でした。
よく笑談をいっていて殆ど真面目になっている事はなかったといってもいい位でした。
酒は飲んだようですが、女遊びなどはしなかったようです。
(『八木為三郎老人壬生ばなし』)
丈の高い痩せた人物、肩がぐっと上り気味に果て、頬骨が高く、口が大きく、色は黒かったけれども、何処かこう、いうに云われぬ愛嬌があった。
病気だといっても何時も元気で、戯談ばかり云っている。
酒はいくらでも飲むが、(中略)本当に笑い上戸であった。
(『新選組遺聞』)
容姿については、背が高く、色の黒い男らしい見た目だったようです。
性格については冗談ばかり言う、明るい人物でした。
また、新選組隊士は遊郭にいくなど女遊びが激しかったですが、沖田総司は全くといっていいほど女遊びはしなかったようです。
沖田総司が本気で愛し、愛された「内縁の妻」
女遊びをしなかった総司にも本気で愛した女性がいました。
名前や素性など詳しいことはわかりませんが、2年ほど一緒に暮らしたと思われる「内縁の妻」がいたのです。
新選組ゆかりの光縁寺(京都市下京区)に、正面に戒名(法名)の「真明院照誉貞相大姉」、側面には「沖田氏縁者」と刻まれた墓があります。
また、過去帳には「真明院照誉貞相大姉二十六日 沖田氏縁者」とあります。
真明院照誉貞相大姉とは?
戒名(法名)を分解してみます。(戒名=寺の住職が死者に贈る名)
〈真明院=院号、照譽=誉号、貞相=戒名、大姉=位号〉
院号:信心深い身分の高い人に授けられる
誉号:浄土宗以外では道号という。最上級を意味する
位号:大姉ー禅定尼ー信女 ※大姉が最も格が高い
すなわち最上級の格式で手厚く葬られた女性
縁者=身内の人
沖田氏縁者=沖田総司の身内
2つを総合すると、この女性が沖田総司の内縁の妻であろうと結論づけられます。
当時、総司は実質的な幕臣だったので、身分が高い。
その縁者は同様に身分が高く、手厚く葬られたこの女性は妻同然です。
慶応元年(1865)1月、新選組は屯所を西本願寺へ移設し、幹部は壬生界隈に休息所をもうけました。
休息所とは妾などを囲う私宅のことで、幹部たちは毎朝ここから西本願寺へ通っていました。
総司も例にもれず、休息所をもうけたはずで、内縁の妻を住まわせて毎朝西本願寺(屯所)へ通っていました。
そういう生活が2年近く続きましたが、彼女が慶応3年(1867)4月に死去したのです。
死因は不明ですが、総司が労咳(肺結核)を発病してわずか2か月後のことで非常にショックが大きかったことでしょう。
内縁の妻への総司の思いがあふれているエピソードがあります。
沖田は、よく私へこの娘の事を話していました。
ふだん無駄口ばかり利いている男ですが、この娘のこととなると、涙を落として語ったものです
(近藤勇五郎『思出ばなし』「恋の沖田」より)
近藤勇五郎とは局長・近藤勇の甥で、のちに娘婿となった人物です。
総司が勇五郎に語ったのは慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦い後に新選組が江戸にもどったときのことです。
内縁の妻の一周忌もおわっておらず、ことあるごとに涙するほど愛した女性でした。
総司の「内縁の妻」や山南敬介など、隊士の墓が多数ある新選組ゆかりの光縁寺↓
新選組の屯所・西本願寺↓
沖田総司にプロポーズを断られ自殺未遂した近藤勇の養女・コウ
もう1人、沖田総司に関係する女性を紹介します。
「コウ」という近藤勇の養女です。
沖田総司にべた惚れしたためプロポーズするも、総司に断られたことを恥じらいのあまり自殺しようとした女性です。
コウは岩田文碩という大阪の医師の三女です。
文碩は新選組の谷万太郎が備中高山より大阪きた際に援助しており、関係が深いです。
さらに、文碩の次女「スエ」と谷万太郎を娶り、谷・岩田両家は親族となりました。
近藤勇はこの両家から養子と養女をとりました。
それが近藤周平とコウでした。
近藤勇は「夫婦養子」を意図したようです。
しかし、近藤勇の思惑通りにはことが進まず、コウは周平と結婚せずに他家に嫁ぎました。
その原因はコウが総司に惚れてしまったからなのです。
勇先生に養女あり。
気は豪く、常に刀を佩く。
沖田総司の勇における愛に変じ、箕箒を把りて妻となすを請う。
総司、固辞。
女みずから愧じて、刀をもって喉を刺す。
しかして殊えず、また生を得る。
のちに嫁す
(『慎斎私言』)
常に佩刀した男勝りなコウは、武勇に優れた総司に惚れ、決死の覚悟でプロポーズしました。
しかし、総司は強く断ったため、恥じたコウは自殺を試みます。
幸いにも回復はしましたが、周平との婚姻もされず、他家を嫁いだといいます。
元治元年(1864)、総司が23歳のときのことです。
このときすでに前章の内縁の妻と出会っていたのかもしれません。
近藤勇五郎『思出ばなし』の「恋の沖田」の解説
沖田総司に関係する女性2人を紹介しました。
この2人のことを内縁の妻の章でも紹介した近藤勇五郎が『思出ばなし』「恋の沖田」の中で語っています。
新選組の人達は、相当女遊びをしたようでしたが、沖田は余りそんな遊びをしなかった代わりに、京都である医者の娘と恋仲になったのです。
それは沖田も話していましたし、勇も母(つね)へ話しているのを聞きました。
しかし勇は、自分たちの行末を考えていたためか、或時沖田へしみじみと訓戒して、その娘と手を切らせ、何でも勇自身が口をきいて堅気の商人へ嫁入らせたとの事でした。
沖田は、よく私へこの娘の事を話していました。
ふだん無駄口ばかり利いている男ですが、この娘のこととなると、涙を落として語ったものです
(近藤勇五郎『思出ばなし』「恋の沖田」より)
文章としてはひとりの女性のことを語っているように見えますが、じつは「内縁の妻」と「コウ」の2人が混じっています。
恐らく、近藤勇五郎は正確に伝えたものの、聞き手の子母澤寛が勘違いしたのでしょう。
前半(黄色マーカ)部は医師の娘とあるので、岩田文碩の娘・コウのことと思われます。
さらに、勇自身が口をきいて他家へ嫁入りさせたとあるのでコウであることの裏付けになります。
後半(青マーカー)部が「内縁の妻」にあたります。
こちらの娘をコウとするならば、自分が振った女性の話をしながら涙するのはおかしい。
一周忌をおえていない、内縁の妻を偲びながら涙したと考える方が自然です。
まとめ
以上、沖田総司に関わる女性2人。
内縁の妻とコウを紹介しました。
沖田総司は周知の通り、剣が強く、新選組幹部という立場からもモテる条件はそろっています。
加えて、背が高く、明るい性格だったので相当モテたことでしょう。
しかし、本人は女遊びはせず、プロポーズをしてくれたコウも振ってしましました。
そんな総司が愛した女性がおり、「内縁の妻」として2年程過ごしたことは明らかになっています。
総司は肺を病みながら、彼女を思い、涙する日々を送りました。
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