蔦屋重三郎をはじめ、江戸で文化が花開いた江戸時代中期。
その中で山東京伝は有名な劇作者ですが、その私生活はどのようなものだったのでしょうか。
吉原遊郭に通い詰め、粋な男として知られていますが、その妻も吉原遊女でした。
この記事では、あまり知られていない山東京伝の妻の菊園(お菊)と玉の井(百合)を紹介します。
山東京伝とは?
山東京伝とは江戸時代中期にマルチな才能を発揮した芸術家です。
教科書に記載してあるとおり、浮世絵、小説(洒落本・黄表紙・読本)で名を残します。
さらには、煙管と煙草入れ屋を営む商人としての顔ももっていました。
(自身がデザインした煙草入れが大流行しました)
また、京伝は生粋の江戸っ子で、20代から吉原に頻繁に出入りし、馴染んだ遊女を2回妻にする「粋」な一面をもった男です。
山東京伝の弟と妹も才能があり、名前を残しています。
8歳年下の弟百樹(幼名は相四郎)は山東京山と号した劇作者となります。
また、10歳年下の妹よねは、黒鳶式部の号で歌集に入集しました。
浮世絵師としての山東京伝
山東京伝が最初に注目を浴びた分野は浮世絵でした。
安永4年(1775)、京伝が15歳のころ。
京伝の絵の才能に目をとめた両親は、当時の浮世絵の大家・北尾重政に入門させます。
そして、北尾政演という号をあたえられました。
18歳のときに黄表紙『開帳利益札遊合』の挿絵を皮切りに、一気に人気浮世絵師の地位を手に入れます。
北尾政演(山東京伝)の代表作は『青楼名君自筆集』で、
蔦屋重三郎から出版されました。
上記の絵は、『青楼名君自筆集』をもとに絵本仕立てにした『新美人合自筆鏡』です。
四方山人(大田南畝)が序、朱楽管江が跋を付した作品です。
当時、人気を二分した扇屋の花魁・滝川(右)と花扇(左)を描いています。
右の滝川という大人気の花魁は、京伝の1人目の妻・菊園の妹です。
劇作者・山東京伝
浮世絵師・北尾政演として世間から才能を認められていた京伝が小説(劇作)の分野でも注目を浴びるようになったのは、天明2年(1782)のことです。
黄表紙『御存商売物』が大田南畝によって称賛されたことがきっかけでした。
この頃から山東京伝を名乗るようになり、蔦屋重三郎や大田南畝、恋川春町らと吉原によく出入りするようになります。
自身の作品にはみずからが絵を描き、代表作は黄表紙『江戸生艶気樺焼』です。
京伝は吉原に頻繁に通い、吉原を題材にした数々の名作を世に残しました。
滝沢馬琴によれば、1か月に5~6日くらいしか家に帰らなかったほどでした。
そして、吉原通いを続けていた山東京伝は遊女と馴染みとなり、やがて、妻に迎えるのです。
山東京伝の最初の妻。扇屋の遊女・菊園とは?
山東京伝の1人目の妻が吉原の妓楼・扇屋の菊園(結婚後、お菊)という女性でした。
京伝の作品、『堪忍袋緒〆善玉』に蔦屋重三郎にお茶を出すお菊の姿が描かれています。
扇屋に所属していた菊園は振袖新造として働いていました。
一方の京伝は蔦重らとともに頻繁に吉原に通っていました。
客と遊女の立場で出会った二人が深く馴染むようになったのは、天明5年(1785)ころだといわれています。
『吉原細見』に菊園の名前がでてきたころのことでした。
二人がどれくらい頻繁に会い、どのような会話をしたのかは正確にはわかりませんが、菊園の方が京伝に惚れています。
寛政元年(1789)の冬に年季が明けた菊園は、扇屋に残りつづけることにしました。
そして、大人気だった扇屋の花魁・花扇の番頭新造として働いたのです。
1年後の寛政2年(1790)2月。
特に二人に進展がないままだったことに見かねた、扇屋の妓楼主・宇右衛門は、自分が京伝と友人だったこともあり、菊園を京伝のもとに行かせました。
京伝は夫婦の約束はしていなかったものの、菊園の純情に心動かされ、父母も公認の嫁と認めることで晴れて夫婦となりました。
山東京伝30歳、菊園改めお菊27歳のことです。
寛政二年の春二月 吉原江戸町扇屋花房が番頭新造菊園 京伝に走れり
菊園は京伝がナジミなり
去年の冬 主家の年季満て尚扇屋に在り
其主人扇屋宇右衛門俳名墨河は京伝の友たりよりて
窺に菊園にすすめて推て其家へ遣はせしとぞ
『伊波伝毛乃記』滝沢馬琴
菊園改め、お菊は素直で気立てが良く、家事も無難にこなして両親に気に入られました。
しかし、幸せな時間は長くは続かず、結婚から3年後の寛政5年(1793)。
お菊は、血塊(子宮がん)となり死亡したのです。
遊女は体を酷使していたため、早死にすることが多くありました。
残念ながらお菊も、その例にもれなかったのです。
京伝はお菊の苦痛の声を聞くことができないといって、お菊が危篤にもかかわらず吉原に居続けたといいます。
悲しみが大きいとはいえ、お菊にとっては心細い最期でした・・・。
京伝の妻血塊ヲ患ひて其病危くなりつ 京伝其苦痛の声を聞くに忍びずとて 日夜吉原なる妓院に在て還らず
『伊波伝毛乃記』滝沢馬琴
山東京伝の2番目の妻。弥八玉屋の遊女・玉の井とは?
山東京伝の2人目の妻が吉原の妓楼・弥八玉屋の玉の井(結婚後、百合)という女性です。
京伝の作品、『作者胎内十月図』に京伝の隣で裁縫をする百合の姿が描かれています。
美人に描かれているので、京伝にとっては、お菊よりも美人に感じていたのかもしれません。
17歳年下の玉の井に同情が愛情へと変わり結婚
初めて『吉原細見』に玉の井の名前が登場したのは、寛政9年(1797)。
玉の井が20歳のときのことです。
早くに両親を亡くした玉の井は、弟と幼い妹の鶴の2人を抱えることになりました。
しかし、援助してくれる親戚もなく、万策尽きた玉の井は吉原に身売りし、弥八玉屋お抱えの遊女となります。
新人のため、振袖新造という下級遊女でしたが、すぐに京伝と出会います。
最初は玉の井への同情もあったでしょうが、徐々に愛情へと変わり、深くひかれあうようになりました。
また、京伝という有名人の馴染みの遊女ということで、他の客はつかず、ただ純粋に愛を育むことができたといいます。
そして、出会ってから3年経った寛政12年(1800)。
玉の井を妻に迎えたいと、弥八玉屋の妓楼主・弥八に京伝が頼みます。
もともと親交のあった2人なので、年季は1年残ってはいるものの、20両ほど(≒200万円)で身請けを許してもらうことができました。
山東京伝40歳、玉の井、改め百合23歳のことです。
前妻のお菊と死別してから7年後のことでした。
この時玉の井が年季尚一年餘ありけれども 渠は高名の人の熟妓なるをもって他の客は一人もなし 之に依て主人弥八も其求に任せ身價二十餘金にて京伝に与へしとぞ
『伊波伝毛乃記』滝沢馬琴
妻を大切にした京伝
京伝は百合をとても大切にしており、再婚してから、吉原には一度も行かなかったと滝沢馬琴は語っています。
あれほど吉原に通っていたにも関わらずです。
また、文化9年(1812)頃に京伝は150両(≒1,500万円)を投じて髪結いの株を購入しました。
髪結いの株があれば月に3分(≒75,000円)の上納金があります。
子どもがいなかった百合が、老後に安心して暮らせるようにという京伝の配慮でした。
また、妻としてだけではなく、仕事のパートナーとしても非常に信頼していたようです。
京伝は、新作を書くときに最初に構想を聞かせるのは百合でした。
自分の頭の中を整理するために百合に語ったのでしょう。
時には、思いついていた草稿を忘れることがあり、百合に聞けばすぐに答えが返ってくるからとも語っています。
京伝の死と義弟との遺産問題により狂死した百合
子どもができなかったものの、仲睦まじい夫婦生活を送っていた京伝と玉の井ですが、
文化13年(1816)9月2日に京伝が脚気衝心で急死します。(享年56歳)
残された百合は39歳で天涯孤独の身となってしまいました。
しかし、京伝に先立たれたショックと孤独による寂しさからか、精神に支障をきたすようになります。
さらに追い打ちをかけるように、京伝の弟・京山が百合のもとに乗り込んできました。
目的は、兄・京伝の莫大な遺産です。
商売でも成功していた京伝は百合に遺産を残していましたが、京山は妻子を連れて兄の家に移り住んできたのです。
京山曰く、
「百合は兄の死によって、狂ってしまった。商売の損失が80両(≒800万円)にのぼり、私が兄の家を継がないと兄の苦心は水泡に帰す。」と。
しかも、百合を物置の別室に閉じ込めてしまいました。
遺産問題により義弟の嫌がらせにあい、
ついに文政元年(1818)2月26日に百合は亡くなりました。
京伝とは17年間の幸せな夫婦生活を送りましたが、最期はお菊と同じく、一人寂しく亡くなったあわれな末路です。
まとめ
以上、江戸時代中期を代表する劇作者・山東京伝の2人の妻を紹介しました。
京伝の妻の1人目は扇屋の菊園といい、京伝を慕い過ぎるあまり、吉原に残り続けた遊女でした。
気立てもよく、結婚後も家事をそつなくこなし、両親にも気に入られた妻でした。
しかし、最期は京伝に看取ってもらえず、亡くなりました。
2人目の妻は、弥八玉屋の玉の井です。
身の上に同情した京伝は徐々に玉の井にひかれていき、身請けをしました。
玉の井の弟や妹を養子にしたり、吉原通いを止めるなど、京伝は玉の井を非常に大切にします。
しかし、京伝に先立たれ、義弟との遺産問題に精神を病んだ玉の井は狂死してしまいました。
2人の妻とも孤独に最期を迎えたという、あわれな最期でしたが、結婚生活自体はとても幸せなものでした。
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