徳川四天王・榊原康政。意外と知らない初陣と旗本先手役の抜擢を解説!

徳川家康

榊原康政と聞けば、

徳川家康の家臣で

本多忠勝などと並ぶ「徳川四天王」の一人とご存知の方は多いと思います。

姉川の戦いをはじめ、数々の戦場での活躍が有名です。

特に天正12年(1584年)、羽柴秀吉との(後の豊臣秀吉)小牧・長久手の戦いでは

秀吉を「主君信長の恩を知らない人物」と大批判する檄文を発することで

康政の名は一気に天下に轟きます。

一方で、活躍に至る若い日々はあまり知られていないように思います。

2023年の大河ドラマ『どうする家康』では
杉野遥亮さんが演じて注目されていましたね。

榊原康政 | 登場人物 | 大河ドラマ「どうする家康」 – NHK

これまで歴史に無関心の方も「榊原康政」に興味を持っていると思います。

今回はどのような人物だったか、出自から家康に重用されていく過程を紹介します!

徳川四天王・榊原康政の出自

天文17年(1548年)、三河国上野下村(豊田市上郷町)に

榊原家の次男として榊原康政が誕生します。

幼名は於亀

通称は小平太

先祖は伊勢から三河へ移住

康政の出自は高祖父の仁木利長まで遡ります。

元々は伊勢の仁木氏の流れを組むようで、

高祖父の利長が、伊勢国一志郡榊原村に移住し、「榊原」を名乗るようになったようです。

三河国へ移住したのが、
祖父・清長でした。

清長は家康の父・松平広忠へ
仕えていたようです。

(年齢からすると先代・先々代と仕えていたかもしれません)

↓榊原康政出生の地

【コラム】家康の嫡男・信康を支えた兄・榊原清政

榊原清政は榊原家の長男として誕生しました。

康政より2歳年長です。

当初は家康に仕えていましたが、病弱だったようです。

家康の嫡男・信康が誕生すると、もり役に就任。

天正7年(1579年)に信康が切腹すると非常に
悲しんだと言います。

信康を守れなかった後悔から、職を辞して隠居しました。

その後は表舞台に立つことはなかったものの、

慶長12年(1607年)2月に久能城へ入城します。
(一度は固辞しています)

しかし、同年5月に死去します。

徳川四天王・榊原康政13歳:家康の小姓となる

康政は、はじめ松平氏の筆頭家老
酒井将監忠尚さかいしょうげんただよし小姓でした。

酒井将監忠尚は「ご主君様か将監様か」と言われる程の威勢があった人物でした。(『三河物語』)

後には主君・徳川家康に反旗を翻す人物として有名です。

また、康政と同じく「徳川四天王」とされる酒井忠次の叔父とされる人物です。

永禄3年(1560年)・13歳の時に父・長政に連れられて大樹寺にて家康に拝謁しました。

以降、当主・家康付の小姓となりました。

↑康政が家康に拝謁した大樹寺

康政としては家老から本家の当主に仕える大きなチャンスが得られたわけです!

実際に康政の出世が始まっていきます。

ちなみに、

同い年で「徳川四天王」の本多忠勝は
同年(永禄3年)に

「桶狭間の戦い」の前哨戦「大高城兵糧入れ」で一足先に初陣を果たしています。

この時から交流があったとすれば…

康政としては心安らかではなかったかもしれません…。

徳川四天王・榊原康政16歳:初陣・三河一向一揆

さて、そんな康政に初陣の機会が訪れます。

家康3大危機の一つ
三河一向一揆です。

【三河一向一揆の概略】

・永禄6年(1563年)9月 家康家臣団を二分する三河一向一揆勃発

・永禄7年(1564年)1月頃 一揆勢、上和田城(岡崎市上和田)へ攻撃
⇒家康方が追い返す

・永禄7年(1564年)2月頃 小豆坂で激戦が勃発
⇒家康方が勝利

・永禄7年(1564年)4月 一揆、ほぼ鎮圧。

この一揆に合わせて

康政の旧主・酒井将監忠尚は家康に反旗を翻します

この忠尚鎮圧戦・上野城攻めに

康政は初陣として出陣しました

この時、抜群の働きをしており、

家康の「康」の字をもらい、

「康政」と改名しました。

↓康政が攻撃に加わった上野城


三河一向一揆の記事も参考にしてください。


初陣の翌年、永禄8年(1565年)に家康は吉田城(豊橋市)を攻撃します。

17歳で本多忠勝と共に先鋒を務めており、

順調に出世していることがわかっています。

徳川四天王・榊原康政19歳:旗本先手役へ抜擢

永禄8~10年(1565~1567年)頃、徳川家康は軍制改革を実施します。

「三備」みつぞなえと呼ばれる軍団に家臣を組織編制した改革です。

【三備の3グループ】

  1. 旗頭・酒井忠次組(東三河衆)
  2. 旗頭・石川家成組(西三河衆)
  3. 家康直下の旗本(旗本先手役はたもとせんてやく・馬廻衆)

この改革で家康の直轄軍の
侍大将・旗本先手役に康政は大抜擢されます。

永禄9年(1566年)19歳の時と言われています。

【旗本先手役の役割】

  1. 家康の護衛
  2. 軍団の指揮

既に3人の与力(家臣)がいた康政は、この時50騎の与力を与えられました。

同じく徳川四天王の本多忠勝も同時期に旗本先手役に任命されています。
(忠勝は52騎もしくは55騎)

他にも鳥居元忠、大久保忠世、後には平岩親吉など錚々たるメンバーが旗本先手役に任命されています。

↑康政と同時期に旗本先手役に任命された本多忠勝

↓三備の詳しい解説はこちらをチェックしてください!

まとめ

今回は、徳川四天王の榊原康政の意外に知られていない若き日々を紹介しました。

小領主の子として生まれながらも、家康に重用されていきます。

  1. 家康の小姓に抜擢
  2. 初陣が旧主討伐合戦。「康」の字をもらい、「康政」に改名
  3. 一軍を指揮する「旗本先手役」に大抜擢

その後も、家康家臣団の中心として

姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど数々の戦いで活躍していきます。

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