天下人・織田信長は織田弾正忠家という守護代の家臣の家に生まれました。
おなじ戦国大名の今川義元や武田信玄のように鎌倉時代からつづく名門の出身ではありません。
しかし、祖父・信貞と父・信秀が築いた巨大な経済基盤を相続し、その後の躍進に寄与したのです。
今回は織田信長のルーツについて解説します。
織田信長のルーツ①:尾張織田氏の登場
信長の祖先は越前国の神職
織田信長は尾張国(現・愛知県)に生まれましたが、祖先は越前国(現福井県)の丹生郡織田荘にある劔神社の神職でした。
室町時代のことです。
信長が「御氏神」として劔神社を格別に保護していたことからも信憑性が高く、事実であっただろうと思われます。
柴田勝家が、劔神社・織田寺の門前に対し、様々な税の負担を免除したもので、「当社の儀は殿様御氏神」と書かれており、信長公が劔大明神を氏神として崇敬したことを示している。
劔神社 ご由緒(劔神社について – 越前二の宮 劔神社・つるぎじんじゃ (tsurugi-jinja.jp))
織田氏は守護職・斯波氏の家臣だったため尾張へうつり、守護代をつとめる
織田氏の主君は斯波氏でした。
斯波氏はもともと、信濃国(現長野県)と越前国の2か国の守護をつとめる足利一門の有力な家です。
その斯波氏は応永6年(1399)に、周防など6か国の守護であった大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱である応永の乱で幕府側として尽力しました。
乱での働きの褒賞として応永7年(1400)尾張国の守護に補任され、3か国を兼任することとなりました。
織田氏は斯波氏の家臣として尾張に移って守護代の地位についたのです。
ここに信長が生まれる尾張国との関係ができました。
織田信長のルーツ②:尾張の支配体制 信長は守護代の家臣である「弾正忠家」出身
室町幕府の権威が弱まった15世紀の後半。
応仁の乱が勃発します。
この乱の一因であった斯波氏の家督争いが勃発し、家臣である織田氏も2つに分裂しました。
【織田氏の分裂】
- 伊勢守家(岩倉織田氏):代々守護代をつとめた織田氏嫡流。岩倉城を本拠。
- 大和守家(清州織田氏):応仁の乱後に力をつけた。清州城を本拠。
→家臣に弾正忠家が存在。信長のルーツ
この織田氏の分裂で登場し、急速に力をつけた人物が織田敏定です。
敏定は支流の大和守家の出身でした。
幕府の支持を得た敏定は伊勢守家に代わり、主の地位につき、尾張国随一の実力者に成長していきます。
尾張国随一の実力者の敏定には3家の力をもった奉行(家臣)がいました。
その中に織田弾正忠良信、信長の曽祖父がおります。
【織田大和守家の三奉行】
- 織田弾正忠家 →信長のルーツ・出身
- 織田藤左衛門家
- 織田因幡守家
ここまでをまとめると尾張支配と信長のルーツは表のようになります。
織田信長のルーツ③:祖父・織田信貞の経済都市・津島の支配
信長の曽祖父、織田敏定は守護代として尾張国随一の力をもっていました。
しかし、同様に守護代が力をもち続けてきたわけではありません。
むしろ守護・守護代の権力が衰え、「弾正忠家」の勢力が目立つようになります。
そして、飛躍させた人物が信長の祖父・織田信貞です。
信貞の権力の源となったのは豊かな経済力をもった津島の支配でした。
【津島の経済力】
- 伊勢湾が目前に広がる港町
- 全国から参詣者を集める門前町
←牛頭天王信仰の総本山・津島神社がある
津島は現在は内陸の都市ですが、戦国時代は伊勢湾が間近にある港町として栄えていました。
また、全国的に信仰されていた牛頭天王の総本山である津島神社があり、大勢の参詣者を集めた門前町としての顔ももち、非常に豊かな経済力をもった都市でした。
信貞は遅くとも大永年間(1521~1528)初期には、津島支配を意識して新たな居城を築きます。
勝幡城です。
勝幡城は津島から北東へ約4キロメートルと近接した位置にあります。
その結果、津島支配を成功させました。
信貞が津島衆に対して知行安堵を行う権限をもっていることから成功したことがわかります。
【織田信貞の津島支配を示す書状】
津島天王禰宜九朗大夫跡職の事、闕所せしむるといえども、その意たるの条、申し付け候上は、違乱の族これあるべからず。相違なく知行すべきものなり。よって状件のごとし
大永四 五月三日 慶満殿 信貞花押
『張州雑志』大永4年5月3日 津島豪族の河村慶満へあてた信貞の書状
跡職:家督相続
闕所:所領の没収
違乱:秩序を乱す
さらに、大永6年3月に尾張を訪れた連歌師の宗長の記録から、信貞が絶大な権力をもっていたことが垣間見えます。
おなじ国(尾張)津島へたち侍る。旅宿はこの所の正覚院。領主織田霜台息の三郎礼とて来臨。折紙などあり
『宗長手記』
霜台:弾正忠の中国語=織田信貞
息:息子
三郎:織田信秀(信長の父)
宗長には信貞が「領主」とうつるほど力をもっていたことが記録によりわかります。
このように津島支配により弾正忠家は飛躍的に成長し、信長の父・織田信秀に引き継がれていきます。
織田信長のルーツ④:父・織田信秀による弾正忠家の躍進
織田信秀による弾正忠家の熱田の支配
信長の父・織田信秀は津島支配の強化して、権力基盤を盤石なものとしました。
そしてさらなる成長のため、熱田の支配に成功します。
【熱田の経済力】
- 伊勢湾が目前に広がる港町
- 「伊勢神宮に亞ぐ御由緒の尊い大社」(『熱田神宮略記』)として栄えた門前町
熱田は津島とおなじく、港町と門前町の二つの顔をもった経済都市として非常に栄えていました。
この熱田を信秀が支配下においたのは天文7年(1538)のことです。
熱田から北へ約12キロに位置する那古野城を取得したことで支配できたと考えられています。
信貞の津島支配と同様の流れです。
もともと熱田を支配していたのは「加藤家」でした。
加藤家は16世紀前半から東西の2家に分かれ、
両家ともに漁業・交通路の整備・町場の造成などを掌握しており、熱田の町の運営をしています。
加藤家に対して、信秀が商売上の特権を与えていることが確認されています。
織田信秀の莫大な経済力がわかるエピソード
津島に加えて熱田を支配下においた信秀は莫大な経済力を有しました。
信秀の経済力がわかるエピソードが3つあります。
- 京都の公家が目を丸くした豪華な勝幡城
- 伊勢神宮外宮の遷宮費用の約840万円を寄進
- 約4,800万円の皇居修理費用を献納
京都の公家が目を丸くした豪華な勝幡城
天文2年(1533)7月8日。
織田信秀は飛鳥井雅綱という京都に住む公家を尾張に招きました。
目的は蹴鞠の指導をしてもらうためです。
雅綱は友人の山科言継を連れて尾張に下向しましたが、勝幡城の様子に「目を驚かせ候」と記録されています。
また、城内には橋がかかっており、橋の上で宴会を催すことができるほど庭園も豪華であったようです。
伊勢神宮外宮の遷宮費用の約840万円を寄進
伊勢神宮では20年に一度、内宮・外宮ともに遷宮することが決められています。
「式年遷宮」といいます。
15世紀後半になると、伊勢神宮の経済力が悪化。
室町幕府の力も低下し、遷宮のための費用が捻出できずに式年遷宮が途絶えることとなりました。
内宮は寛正3年(1462)、
外宮は永享6年(1434)以来ずっと式年遷宮が途絶えたままでした。
最後の外宮の遷宮から約100年後の天文9年(1540)5月。
織田信秀は伊勢神宮のこの状況に救いの手を差し伸べます。
信秀は外宮の遷宮のために総額700貫(約840万円)を寄進しました。
ちなみに内宮は近江の六角氏が支援をしています。
約4,800万円の皇居修理費用を献納
信秀が伊勢神宮に大金を投じて伊勢神宮外宮の遷宮を執行させたことは朝廷でも評判になったようです。
室町時代~戦国時代は伊勢神宮と同様に、朝廷も貧しい状態でした。
自費では皇居の修理ができず、戦国大名の献金によって修理がたびたび行われていたといいます。
そんな時に、織田信秀という裕福な戦国大名がいるという噂が朝廷・公家のもとに届いたのです。
当然、公家たちは信秀に修理費を出させようということになりました。
天文12年(1543)正月のことです。
修理費は、なんと
10万疋(約4,800万円)にのぼりました。
同年の7月に今川義元も修理費を5万疋を献納していますので、倍の金額にあたります。
守護代の家臣レベルの信秀が並々ならない経済力をもっていたエピソードです。
まとめ
以上、織田信長のルーツについて解説しました。
- 織田氏のルーツは越前国の神職
- 主君・斯波氏の尾張守護任命をきっかけに尾張国へ移住
- 守護代をつとめた織田氏が力をつけ、応仁の乱をきっかけに2派閥に分裂
- 大和守家の家臣、弾正忠家が信長のルーツ
- 祖父・信貞と父・信秀が津島と熱田という経済都市を支配下におくことで躍進
- 伊勢神宮や朝廷に大金を寄進するほどの経済力
信長はこの経済力を父・信秀から相続し、尾張にとどまらず、天下統一へ向けて全国に躍進していくのです。
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